成功裡に終わったプレカーニバルを経て、翌年浅草では、いよいよサンバカーニバルが開催されることとなりました。リオ・デ・ジャネイロから同年の優勝チームが招聘され、また各種関連イベントも開催されるという盛り上がりぶりが、当時の実施計画案から感じることができます。区と地元の、イベントにかける並々ならぬ意気込みと地元愛を引き続き追っていきましょう。
日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。
第3回は、「【浅草サンバカーニバル創世記3】1981年8月29日 第1回浅草サンバカーニバル開催!」です。
文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎
*各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による
*チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による
●実施計画案から知る、地元の思い
1981年8月29日、いよいよ満を持して第1回浅草カーニバルが開催されました。この時の盛り上がりは、’81年5月に提示された浅草カーニバルの実施計画案(以下「実施計画案」)から見て取れます。
実は当時の実施計画案には、“サンバ”の2文字と開催回数の表記がなく、公式記録にこれらが表示されたのは、第2回からでした。
実施計画案には、“若い人の街 浅草を目指して”をコンセプトに、新しい伝統行事を作り上げるという強い思いが記載されています。第1回カーニバルは、同年のリオ優勝チーム(ポルテーラ)の選抜メンバー30名を、実行委員会が経費負担して招聘するなど大変大掛かりなイベントとして実施されました。
リオで見た盛り上がりを浅草で実現するという意欲の下、浅草に関連する多くの団体をまとめ、スポンサーを確保して継続を図ってゆくことも明記されています。また日本ではサンバになじみがない状況を踏まえ、カーニバル開催に先立って7月・8月に計10回のサンバ講習会が開催されるとの記録も残っており、これらのことからも、イベント成功にかけた地元の並々ならぬ意気込みが感じられます。
なおこの時出場したほとんどのチームは、サンバの音源を流しステージに上がって踊るというスタイルで、自前で演奏したのは、優勝したMOAチームのみでした。
●第1回の概要
地元での盛り上がりは、第1回の概要からも感じることができます。
一つひとつ見ていくと、現在とは参加基準が異なったり前夜祭が行われたりと実施状況との違いも多く、なかなか興味深い内容になっています。
※第1回概要から抜粋
主催:浅草カーニバル実行委員会 推進協議会名誉会長:台東区長(当時)内山榮一 実行委員長:飯村茂 歓迎レセプション: 8月27日PM6:00 台東区民会館8階にて 会費10,000円で378名が参加。立食パーティー形式で、福原章クインテットをバックにショウが行われた 前夜祭:8月28日PM4:30 国際劇場にて 会費3,000円で1,128名が参加。松崎しげる、SKD(松竹歌劇団)、リオのカーニバルが出演 サンバカーニバル:8月29日 PM5:00~PM9:00雷門通り特設ステージ ゲスト出演は、しばたはつみ、ネイティブサン サンバコンクールも開催 サンバ講習会の開催: 7月3日から8月14日の間の10日間。浅草公会堂及び城ダンススクールなどでサンバ講習会が開催された コンクール形態: 雷門通り特設ステージにおける1チーム1分~3分の定点パフォーマンス コンテスト司会:吉幾三、清水クーコ 参加団体: 66チーム(参加者1,000名)) 参加基準:1チーム5名以上。応募締め切り8月15日 現在につながる主な出場チーム: 仲見世エンコ・サンバスクール60名(現・仲見世バルバロス)、上智大学チームソフィア8名、新仲チーム50名、台東区役所チーム17名、など 審査員: 審査委員長:伴淳三郎 審査員:田村景一(元ブラジル大使)、竹村淳(Mディレクター)、白都真理(女優)、湯浅武(読売新聞社)、田中忠(日本競技ダンス連盟)、春日宏美(SKD)、千羽ちどり(SKD)、藤川洋子(SKD)、中村猛夫(東京都生活文化局長)、原洋子(ヴァリグブラジル航空) 賞金: 優勝 100万円及び副賞(以下同) 2位チーム30万円、3位チーム20万円 他に10万円の賞金付きの表彰も行われた 優勝:MOAサンバチーム |
●出演チームの横顔
優勝したMOAサンバチームは多くのブラジル人サンビスタを擁する200名のチームでした。出場チーム中唯一、自らの演奏で出場した団体で、当時の録画を見ても本格的なサンバ演奏を行っていたことがわかります。コンテストを中継したテレビ東京の映像によると、優勝発表直後のインタビューでMOAサンバチームは、賞金を全て福祉団体に寄付するとコメントしています。
第1回に出場した仲見世エンコ・サンバスクールは現在の仲見世バルバロスの前身です。
仲見世バルバロスHPによると、
「“エンコ”というのは、当時の浅草公園六区のことを指す隠語」だとか。インターネット普及前であった1980年代は、資料も知識も乏しく、「サンバってまあこんな感じだろっ!と仲見世商店街のドレス屋さんから金色の布を譲り受け、各自衣装らしく仕立てたり、ただ身体に巻きつけただけの人もいたり。」(仲見世バルバロスHP)
という状況だったようです。隔世の感がありますが、
「現在、そして未来へと繋がるはじめの一歩であった。」(同上)
とも記されています。
なお第1回に出場した学生チームはソフィアサンバグループ(上智大学)(8名)のみで、個人でいくつかの一般参加チームで出場したメンバーを除き、藝大としての出場はありませんでした。多くの藝大メンバーは、リオから参加する前年優勝のポルテーラの演奏を楽しみにし、生で身近に見る最高のチャンスと考えていました。また音楽科のメンバーは、バテリアの打ち出すリズムを写譜するという目的などもあり、出場を見送ったとのことでした。
*永武氏談
学生チームについては、第2回は「大学サンバ連盟」、第3回には「ユニオン・ジ・アマドーレス」という名称で参加しています。
「大学サンバ連盟」という名称については、一般の観客に意味が分かるような表現にしてほしいとの要望が実行委員会からあり、ユニオン・ジ・アマドーレスというチーム名が使えなかったとのことでした。
*永武氏談
次回掲載は“第2回浅草サンバカーニバル”です。第2回の開催にあたっては多くの困難があったようです。お楽しみに!
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