【浅草サンバカーニバル創世記4】1982年8月7日 第2回浅草サンバカーニバル開催は何度も暗礁に
- Ryota Yamakami
- 3月23日
- 読了時間: 5分
更新日:3月25日
1981年、雷門前の特設ステージで記念すべき第1回を開催した浅草サンバカーニバル。翌年第2回からはパレード形式が採用されることとなり、これが現在の開催形式の基礎となっています。ですが開催は一筋縄ではいかず、何度も暗礁に乗り上げることに……
新しい取り組みには必ず軋轢が伴うもの。それらを跳ねのけ未来へ懸け橋をつないだ、当時の地元の皆さんのご苦労と努力を振り返りましょう。
日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。
第4回は、「【浅草サンバカーニバル創世記4】1982年8月7日 第2回浅草サンバカーニバル開催は何度も暗礁に」です。
文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎
*各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による
*チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による
●厳しい状況を乗り越えた第2回浅草サンバカーニバル
浅草サンバカーニバルは、第1回終了後に引き続き第2回を行うことが決まり、1981年秋頃から準備が始まりました。また第2回からはパレード形式となることも決定。パレードコースは現在とは逆方向で、浅草寺二天門から馬道通りを下り言問通り、国際通り、雷門通り、馬道通りと進み浅草寺に戻るというものでした。
パレードコースでは主催者側が用意したサンバのBGMが流れていて、それに合わせてスルドやタンボリンなどのサンバ楽器を取り入れるチームが増えていったようです。
第2回の開催については当初、地元関係者の負担軽減と大型スポンサー獲得を目的に、1981年秋から業務の大部分を株式会社シマクリエイティブに委託することとしました。シマクリエイティブが必要な資金を獲得し実行するとの約束を交わし、準備が進められていました。
しかし一方で、第1回の雷門メインステージが事故発生寸前であったことや、パレード形式の運営自体が警視庁の意向に沿わない部分があったため、警視庁の了解を得ることは困難を極めました。結果として実施を見送らざるを得ない状況となり、第2回の開催は一時的に暗礁に乗り上げてしまったのです。
このような困難の中、地元・浅草警察署の署長以下担当者の皆さんが極めて好意的かつ精力的に対応してくださったことで最終的に警視庁の理解を得ることができ、第2回浅草サンバカーニバルは改めて開催のめどが立つまでに至りました。
ただし、この一連の経緯により正式な許可が大幅に遅延。許可が下りたのは1982年6月になってからでした。また許可は得られたもののその条件は大変厳しく、遅延等によりスポンサー獲得が不可能になったとして、シマクリエイティブから契約解除の申し入れがあり、結局シマクリエイティブを主体とした構想は断念せざるを得ませんでした。
このことにより第2回の開催はまたしても困難な状況に陥りましたが、実行委員会は、“今年中止すれば、浅草で再びサンバを実施することが不可能となるのは火を見るより明らか”であるとして、協議を重ねた末、新たな業者に依頼することを断念。多少無理をしてでも決行することを決め、急遽実施要領を変更して地元の素人による手作りで開催にこぎつけました。
※以上昭和57年9月11日付第2回事業経過報告書による
なお同報告書には、先人の様々な努力と工夫で現在の浅草があり、我々も子孫に対しより良い浅草を遺していく覚悟と、サンバカーニバルを浅草における立派な行事として浅草発展のために育成していくことが記されています。このような極めて厳しい状況を乗り越えた街の皆さんの覚悟には、改めて敬意を表さざるを得ません。
●第2回開催概要





コメント