2019年時点で浅草サンバカーニバルの観覧者は50万人。16のエスコーラ、3,000人超の参加者を数え、2024年には第39回目を迎えます。
たいていのイベントは小規模でスタートするのが常ですが、浅草サンバカーニバルに限っては、第1回から13万人の観覧者、65チーム、3,000人に迫る参加者を誇るビッグイベントでした。
東京藝大サンバパーティーと、浅草の活性化をめざした商連・観光連盟との出会い。サンバという新しいカルチャーを浅草に根付かせたその道筋を、さらに辿っていきましょう。
日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。
第2回は、「【浅草サンバカーニバル創世記2】1980年8月 プレカーニバル開催」です。
文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎
*各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による
*チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による
浅草サンバカーニバル企画の加速化を目論み、’80年8月3日には浅草において、サンバフェスティバル・イン浅草(プレカーニバル)が行われました。
プレカーニバルは当初、恒例の盆踊りと一緒に行われる予定でした。しかし降雨により盆踊りが中止となっても、藝大サンバパーティーをはじめとしたサンバ関係者や地元チーム
などは雨が降り続くなか出場。雑誌『中南米音楽』によると “屋外特設ステージでサンバコンテストは行われ、サンバ狂たち5~60人はステージから仲見世通りを突き抜けて屋外に繰り出すという騒ぎになった。子供が踊りだし張られた綱をくぐって酔っ払いが踊りだす。リオの下町とちっとも変わらない騒ぎよう”だったそうです。
用意された優勝賞品はなんと、ポリドールのLPレコード(タイトル不明)! 六本木の“美しい”お兄さんたちも参加したとのこと(『中南米音楽』1981年10月号)。
プレカーニバル実施にあたっては、’79年からの経緯があったことを受けて、浅草側から藝大サンバパーティーへの声掛けがありました。サンバパーティーは当時のメンバーに加え、バンドや知人、一般のサンバ活動グループ(八王子サンバグループなど)にも声を掛けプレカーニバルに臨みました。浅草側はまた、SKD(松竹歌劇団)ダンシングチームやダンススクールの生徒、浅草の祭りで神輿を担いでいたグループなどにも話を持ち掛けました。それらのグループは生演奏ではなくサンバ音源で参加したそうです。なお当日の降雨の影響で、衣装の羽根が傷むことを懸念したSKDチームのダンサーは、結局参加できなかったとのことでした。
*永武氏談
さてこのプレカーニバルに合わせてもう一つ誕生したのが、仲見世バルバロスの前身「仲見世エンコ・サンバスクール」です。それは二人の神輿担ぎから始まりました。出場チームの募集が始まるなか、地元・仲見世商店街からもチームを出そうじゃないか、とお声が掛かったのが、三社祭などで仲見世の神輿を担いでいた「祭好会」の高橋重雄さんと諸橋稔さんでした。このお二人を中心に作られた仲見世エンコ・サンバスクールは、引き続き第1回サンバカーニバルにも出場。これが後に強豪チームの一つである、仲見世バルバロスとなります。残念なことにお二人はすでに他界されています。合掌!
ちなみにこの“エンコ”というのは、池袋をブクロ、上野をノガミなどと呼んだように、当時の浅草公園六区のことを指す隠語でした。
プレカーニバルの模様を掲載 『中南米音楽』
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