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- 【浅草サンバカーニバル創世記5】1983年~1985年、あの日僕らは浅草にいた
第3回浅草サンバカーニバルが開催されたのは1983年ですが、私たちサンビスタの中には、当時すでに出場していた人もいます。今回は参加者の視点から、浅草サンバカーニバル黎明期を振り返ります。第1回、第2回の浅草サンバカーニバルを沿道から観覧し、第3回で初参加したリベルダージの木皿儀孝行さん、第5回でサンバクイーン(個人賞)に選出された植原美香里さんに手記を寄稿していただきました。長文ですが、貴重な資料として、第3回~第5回のデータとともに全文を掲載しました。ぜひご覧ください。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第5回は、「【浅草サンバカーニバル創世記5】1983年~1985年、あの日僕らは浅草にいた」です。 文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による 第3回 浅草サンバカーニバル(1983年 ) ●初めての浅草サンバカーニバル 寄稿/リベルダージ 木皿儀孝行さん 第1回サンバカーニバルは、たしか新聞情報で開催を知り、夜になって見物に行ったのですが、イベントは終了していました。夜遅くやると勝手に思っていたんです。 第2回の時は経堂のサンデーサンバスクールに所属していましたが、参加の話はなく、仲間と見物に行きました。現在より観客数は多かったような気がします。場所を移動しても顔から上しか見えず、短時間で帰りました。 第3回に初めて参加しました。ドミンゴというチームでしたが、単独で参加したのか、それとも八王子のチームと合同で参加したか、記憶があいまいです。少人数のチームが多数出場し、楽しんだうえ、かなりのチームに5万円の賞金が授与されました。その年の秋に渋谷でイベントがあり、サングラス & リーゼント姿の強面の3人に声をかけられ、ライブに誘われました。それがバルバロスの当時のリーダーの高橋さんと、諸橋さん、和田さんだった。その日初めて、バルバロスの事を知りました。 リベルダージ設立後は、高橋さんには大変お世話になりました。 現在の浅草サンバカーニバルはレベルが高くなりましたが、出場チームの減少も問題になってきています。少人数で参加できる特別枠を抽選で募集する、等のアイデアもありますが、どうでしょうか。 ●第三回 浅草まつり 浅草サンバかあにぃばる 開催概要 ※表記は実行委員会資料に準拠 主催: 浅草カーニバル実行委員会 実行委員長:飯村 茂 日時: 1983年8月27日(土)18:00~21:30 歓迎レセプション:8月26日(金) 会場 :台東区民会館(精養軒) 有料 パレードコース: 前回と同じ。浅草寺境内(現アレゴリア製作場所)→ 馬道通り→国際通り→雷門通り→馬道通り→浅草寺境内 (現アレゴリア製作場所)でおおむね2kmのコース。 パレードは参加チームを9グループに分けグループごとにフロート車を挟み音響・照明機能を持たせ著名タレントを乗せた。 出場(出演)著名人: 倉田まり子、川島なお美、明石家さんま、高田純次、山田邦子他 オパ、SKD(春日宏美他) リオ招請チーム:ポルテーラ サンバリズム・ステップ講習会: 6月19日から7月29日の間の7日間・会場は雷門前大和銀行跡1回においてオパの指導で実施。 賞金: 大賞 100万円及び副賞、トロフィー(以下同) 金賞 30万円 銀賞 20万円 各種特別賞あり 参加団体(コミュニケーションチーム含まない): 33チーム 現在につながる出演チーム: 仲見世バルバロス60名、台東区役所チーム70名、 ユニオン・ジ・アマドーレス80名、M・O・A・サンバチーム150名 参加基準: 一チーム5名以上。サンバカーニバルにふさわしい衣装あるいは仮装をすること。原則としてサンバリズムで踊ること。楽器持参も可。 応募締め切り: 8月15日 表彰式: 特設ステージ(場所の記録なし) 優勝チーム: M・O・A・サンバチーム 金賞: ユニオン・ジ・アマドーレス 審査員: 審査委員長 :はかま満緒(作家) 副委員長 :丹下キヨ子 審査員 :鈴木邦彦(作曲家)、原洋子(ヴァリグブラジル航空広報部長)、伊藤彰彦(読売新聞社事業開発部長)、津田健(読売新聞社新宿支局長)、須田良三(日伯中央協会常務理事)、嶋本忠義(上島珈琲取締役東京支社長)、高橋平(大日本印刷(株)CDC事業部取締役事業部長)、嵐康一郎(日伯美術連盟事務局長) ※この回の実施計画案では“審査に関しては著名文化人及び専門家を加えて審査のより一層の公正を期すとともに各参加チーム審査結果に対する説得力強化を図る“とされていた。 第4回 浅草サンバカーニバル(1984年 ) ●第四回 浅草まつり 浅草サンバかあにぃばる 開催概要 ※表記は実行委員会資料に準拠 主催: 浅草サンバかあにぃばる実行委員会 実行委員長: 飯村 茂 日時: 1984年8月4日(土)16:30~20:30 パレードコース: 二天門→馬道通り→雷門通り→すし屋横丁角まで ※この回(第4回)からコースが変更され、現在とほぼ同じコースになった。 参加団体(コミュニケーションチーム含まない):40チーム 現在につながる出演チーム: 仲見世バルバロス80名、台東区役所チーム70名、 シンナカ・イルマンスドサンバ(40名)ユニオンチーム(80名)、イパネマ25名 優勝チーム: JAL・FLYING・ANGELS 審査員: 資料なし 第5回 浅草サンバカーニバル(1985年 ) ●1985年(昭和60年)第5回浅草サンバカーニバル 寄稿/植原美香里さん (第5回浅草サンバカーニバル最優秀個人賞受賞者) 通常は8月の最終土曜日に開催されるのだが、3月に東北・上越新幹線上野駅開業、4月に桜橋完成、12月に近代仲見世誕生100周年もあって、この第5回はそれに合わせた「東京下町ライブ‘85計画」のイベントの一つとして、「東京ダウンタウンカーニバル 浅草サンバスペシャル」と銘打ち、珍しく10月5日に行われた。 当時のサンバカーニバルの規定では1チーム5名以上で参加でき、しかもサンバに直接関係なくてもOKだったので、初期の参加者は地元企業の有志や友人同士、かっぽれ道場の皆さん、新宿二丁目のショーパブの皆さん等々と彩り豊かであった。音楽は専ら街中に張り巡らされた音響装置から、耳馴染みのあるブラジルの曲「アクアレラ・ド・ブラジル」、「トリステーザ」、「ママ・エウ・ケーロ」などが流されていた。つまり、流れる音楽に合わせて思い思いの衣装でパフォーマンスをする、いわば仮装パレードといった具合。 私は、この年の4月にクルゼイロ・ド・スウルというエスコーラに入った。フランシス・シルヴァ氏率いるこのときのクルゼイロは総勢50名前後の編成で、チーム独自のパレード曲(サンバ・ヂ・エンヘード)を作った。おそらくオリジナルの曲を作って浅草に参加したのは、クルゼイロが初めてだったのではないだろうか。それに合わせて打楽器のパターン(バツカーダ)、踊り(ソロとグループ(パシスタとアーラ))と旗振り(ポルタ・バンデイラ)役を決めた。ご存じの方は旗振りの介添え役(メストレ・サーラ)は? とお思いだろうが、この時は男性ダンサーがいないので、ひとりぼっちの旗振りだった。1986年までは、他のエスコーラ・ヂ・サンバと名乗るチームも同じような状態だった。ユニオン・ドス・アマドーリス(当時はユニオンと呼んでいた 現在のウニアン)は男女の演者を揃えてはいたが、男性は楽器担当、女性は踊り担当が普通だったのである。 衣装といっても入手する手段も構造もわからないので、バテリア(打楽器隊)は白いトップハットをチームカラーの赤と緑のシールで飾り、揃いのオリジナルTシャツを作り、ダンサーは大手のレンタル衣装会社から借りて髪飾り等、一部手作りを加えつつ用意した。アーラのダンサーに同じものを用意するにはもってこいである。皆、ビキニでの肌の露出は嫌なので、ワンピースの水着型でそれとなく腰回りを覆うオーガンジー製のケープを首からひらひらさせていた。端を手にくくりつけると蝶が羽を広げたようにボリュームが出るので、人数の少なさがカバーできるという利点もあった。 私はというと、パシスタ2人のうちの1人に選ばれたので、スパンコールのビキニを借りて、生地店や服飾材料店で材料を入手、数少ない南米特集の雑誌や旅行のパンフレットのそれらしい写真などを参考に手作りで準備した。 浅草サンバカーニバルはコンテスト形式で順位がつくのはおなじみだが、第5回の優勝チームには、賞状とトロフィー、賞金100万円とブラジル行のペア航空券、二位にも同様に賞金があった(金額は多分30万円)。その他に「最優秀個人賞」というのがあって、これは第6回まで続いたが、チームの中で代表者を決め、チームのパフォーマンスとは別に審査されるという。この賞には5万円の賞金がつくというので、選ばれた私は、打ち上げの飲み代をゲットする! と宣言して本番当日に臨んだ。 当日の参加チームの演者控室は、台東小学校の体育館があてがわれた。オリジナル曲を引っ提げたクルゼイロは、ガラス屋のトラックに機材を設置してPA車を準備した。ガラス屋のトラックというのが良い目の付け所で、荷台に「馬」と呼ばれる三角の台(ガラスを立てかける)があるので、機材を隠しながら飾りつけるには最適であった。沿道に流れる曲とバッティングするのは百も承知、とにかくブラジル仕様でいくのが我がクルゼイロの気概であった。 通常の真夏の開催とは違って、10月5日は涼風気持ち良い日であった。パレードの開始時間は15時。当時の集合場所は、浅草寺の東側、浅草神社の前の広場。衣装を付けた出場者20チーム約800人(中南米新聞/1985/10/16発表)が一同に集まり、ドコスコ思い思いに音を出すのを遠巻きに、観客が集まり、半裸の女の子を撮影しようとカメラ愛好家があちこちに出没する。中には良からぬ嗜好で撮影しようとする輩もいて、小競り合いもあり、喧騒そのものであった。 開会宣言の後、順に二天門をくぐり抜け、パレードが始まる。陽が傾いた沿道には多くの観客がいるのだが、皆、珍しいものを観るような目つきというのが第一印象だった。まるで動物園の檻の中にいるようだ。腕組みして無表情な男性も多い。夏のイベントのパレードでその目つきに慣れていたとはいえ、規模が違う。さっきまで円陣を組んでいたメンバーもパレードでは一列になるため、心細くはなるが、そこは出たからにはやらねばならん。 こういう時は比較的、女性は素直に反応して笑顔を見せてくれる。よし、やるぞとその人の前でステップを踏みパフォーマンスすると、破顔して拍手をしてくれ、周囲になごみの笑顔が連鎖して拍手の輪が広がった。やっぱりこれだー。手応えを掴んだ。手拍子で煽るのも効いた。つまり、楽しむ方法がわからないのだから、観客を参加させてしまえばいいのだ。 だが、問題はまだある。隊列の進行である。打楽器を奏でながら歩行するのは大変なこと。グループダンサーもしかり。振付があるからだ。ところがパレード進行の目安として、プラカードを持ったボーイスカウトがいるのだが、彼らも普段、頻繁にやっている訳ではない。当然、前が進めばついて行く。後ろがどうなっているのかはお構いなしである。どんどん間隔が広がりだしたのに気づいた私は、自由に動ける利点を活かして、ステップを踏みつつパフォーマンスしながら、さもパレードの構成の演出として、前後のリーダー格のメンバーに近づいては進行の指示を伝え回る。アーラのダンサーたちも、振付の中にある「自由に踊っていいフレーズ」を利用し、出来るだけ大きく動いてもらって隊列が一つの塊と沿道から見えるように進行した。それでも時々大きくあいてしまうのは仕方ない。当時の50人規模のエスコーラのパシスタは、パフォーマーであり、ディレクターであり、進行係も兼任したのだった。 浅草松屋の交差点を雷門に向かって曲がるころには、日も沈んだ。各チームに照明車が何台か付いた。だから、初パフォーマンスは夜だったという印象が強い。そのうち、興が乗ってきたバテリアのメンバー達が、2人のソロダンサーの引き立てに、隊列をくずして取り囲むスタイルをやり始めた。人数の少なさを逆手に取ったこの演出は格好よかった。 審査員席前でも同様に、スルドやカイシャのメンバーをバックにグループダンサーが並び、また、そのソロダンサーを取り囲むバテリアの構成でチームのパフォーマンスが審査され、さらに私は最優秀個人賞エントリーの「紅バラ」を目印につけて審査を受けた。やがてゴール線を越えると、皆でやり終えたという達成感を味わいながら、そのままコンテスト表彰式の行われる浅草公会堂へ向かった。初めて出場した緊張感から解放され、軽い疲れと涼風が気持ちよかった。通りではまだ、他の人数の多いチーム=仲見世バルバロス、ポルテーラ・ジャパン、ユニオン(現ウニアン・ドス・アマドーリス)のパフォーマンスが続いていた。 浅草公会堂では参加者全員が座って表彰式を見るようになっていて、ギラギラのラメパウダーやペイント、汗などで汚されないようにと敷かれた座席のビニールが、肌にぺたぺたくっついたのを今も覚えている。場内はパレードが終わった興奮で騒然としていた。 最後のチームの着席を待って、会場の照明が落とされると表彰式が始まった。開会宣言の後、ノーチェ・クバーナの演奏、SKDの踊り、来賓の挨拶を経て、いよいよ各賞の発表である。早く名前を呼ばれてしまうとそれ以上の賞を取れないので、名前が告げられるたびに、チーム全員で大きく安堵のため息をついたのには笑ってしまった。 「最優秀個人賞 受賞者は……〇×△★%□●!!」 歓声と共に、チームの皆が私の顔を見て、口々に「やったね! おめでとう!」と拍手をくれる。私は「ん?私? 呼ばれた? ような気がするけど……」の頭のまま固まっていると、ステージでは「どちらにいらっしゃいますか? どうぞ、こちらにいらしてください」と呼んでいる。皆に促されて、私は2階から1階の階段を駆け下りる。取っちゃったよ、取っちゃったよ……と呟きながら。1階後方の重い扉を開けると、大歓声に包まれ、ステージに向かって通路を歩き、ステージに上がる。そして2階にいるチームメンバーに手を振り、そのままレヴェランス(バレエのお辞儀)をすると、一段と大きな歓声が沸き起こった。ようやく、受賞の実感が湧いてきた。 「最優秀個人賞、おめでとう」 祝福を受けながら、審査委員長よりトロフィーと賞状、副賞目録を受け取ったのだが、またそこに驚くべきことが待ち受けていた。聞いていた5万円の賞金以外に、なんとブラジル行のペア航空券が付いていたのだ。 「えっ、聞いていないよーー(心の中で)」 再び、大歓声と拍手に包まれながらも、私は狐につままれたような気持ちを持ったまま、ステージ上で最後の三賞(大賞、金賞、銀賞)発表のために、各チームの代表者を呼びこむアナウンスを聞いていた。やがて、にこにこ笑いながら、プレジデンチ(リーダー)のシルヴァ氏とアーラのリーダーのK子さんが上がってきた。そして、全チームが揃ったところで結果発表を待った。 おなじみのドラムロール、ドゥルルルルルル……ジャン! 「銀賞(3位) ノタ・デース大学サンバ連合!」 ふー、思わずため息が出た。ということは……。どっちだ? どきどき……。 再び、ドゥルルルルルル……ジャン! 「金賞(2位) クルゼイロ・ド・スウル!」 「やったぁ! やったねぇ!」 3人で抱き合って喜び、2階にいるメンバーに大きく手を振り、メンバーからも歓声と打楽器で称え合った。 そして、優勝は仲見世バルバロス。第一回から出場のベテラン、人数も財力も、地元の応援総動員で圧倒的な勝利であった。表彰式を終え、歓喜に沸き立つバルバロスを横目で見つつ、我がクルゼイロは金賞受賞を喜び合いながらも、来年は優勝を目指そうと皆の目が輝いていた。(そして、翌年第6回で本当に優勝したのだった) 第5回出場チーム(約800人) 1. ジャパン・デタガリ・オールスターズ 2. ボネッカス 3. (不明) 4. 女優軍団「でこまひこま」 5. サンバパンデーロ(ダンス賞) 6. タイムレディス(アイデア賞) 7. 松ぼっくり 8. 台東区役所 コンパニエロ・デ・サンバ(熱演賞) 9. サンバ・ニンバ・ゴンバ(審査員特別賞) 10. ハクビ京都きもの学院銀座校(ほのぼの賞) 11. リリー製靴(株)サンバクラブ(仮装賞) 12. 四谷玉ちゃん 13. 浅草松屋(努力賞) 14. セツ・ファッションクラブ(ユーモア賞) 15. E・Sクルゼイロ・ド・スウル(金賞/最優秀個人賞) 16. 仲見世バルバロス(下町ライブ大賞) 17. スタジオ・イレブン(フレッシュ賞) 18. ボルテラJAPAN(演奏賞) 19. エスコーラ・ジ・サンバ・イパネマ(浅草賞) 20. ノタ・デース大学サンバ連合/ユニオン・ドス・アマドーリス(銀賞) ●第五回 下町ライブ85 東京ダウンタウンカーニバル浅草サンバスペシャル 開催概要 ※表記は実行委員会資料に準拠 第五回は主催体制が変更され、また開催も10月に移動している。植原美香里さんの手記にある通り、「東京下町ライブ‘85計画」のイベントの一つとして10月5日に行われた。 主催: 東京・下町ライブ計画実行委員会 会長:内山榮一 浅草サンバスペシャル委員会 委員長:飯村 茂 ※前述の事情から主催は“東京・下町ライブ計画実行委員会”となっている。 日時: 1985年10月5日(土)16:00~18:15 パレードコース: 第4回と同じ 二天門→馬道通り→雷門通り→すし屋横丁角まで 参加団体(コミュニケーションチーム含まない):17チーム 現在につながる出演チーム: 仲見世バルバロス、エスコーラジサンバクルゼイロドスウル、 ノタデス大学サンバ連合(ユニオン) 優勝チーム: 仲見世バルバロス 審査員: 審査委員長: 池波志乃 審査員: マリア・ルシア・デ・アウメイダ・ハモス(ブラジル大使館文化担当官)、高橋良夫(東京都生活文化局観光レクリエーション課長)、伊藤彰彦(読売新聞社事業開発部長)、松田一成(日本ブラジル中央協会参与)、宇野一成(サンパウロ新聞東京支社長)、原洋子(ヴァリグブラジル航空 広報部)、三上次男(写真家)、川上弥栄子(金龍小学校教諭) 表彰式: 浅草公会堂 19:00~20:00 特記事項: ①開会式・打ち上げについての記録なし ②第5回は出演者にお願い文が配布されている。その内容は (1)人間としての基本的な日常のあいさつ、会話等を常識的態度で望むこと (4)主催者、演技進行担当者、警察、その他各担当者の指導、指示に遅延なく従うこと。 などで、その他マナー順守についてのいくつかの項目が列挙されている。
- 【浅草サンバカーニバル創世記4】1982年8月7日 第2回浅草サンバカーニバル開催は何度も暗礁に
1981年、雷門前の特設ステージで記念すべき第1回を開催した浅草サンバカーニバル。翌年第2回からはパレード形式が採用されることとなり、これが現在の開催形式の基礎となっています。ですが開催は一筋縄ではいかず、何度も暗礁に乗り上げることに…… 新しい取り組みには必ず軋轢が伴うもの。それらを跳ねのけ未来へ懸け橋をつないだ、当時の地元の皆さんのご苦労と努力を振り返りましょう。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第4回は、「【浅草サンバカーニバル創世記4】1982年8月7日 第2回浅草サンバカーニバル開催は何度も暗礁に」です。 文: 浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による ●厳しい状況を乗り越えた第2回浅草サンバカーニバル 浅草サンバカーニバルは、第1回終了後に引き続き第2回を行うことが決まり、1981年秋頃から準備が始まりました。また第2回からはパレード形式となることも決定。パレードコースは現在とは逆方向で、浅草寺二天門から馬道通りを下り言問通り、国際通り、雷門通り、馬道通りと進み浅草寺に戻るというものでした。 パレードコースでは主催者側が用意したサンバのBGMが流れていて、それに合わせてスルドやタンボリンなどのサンバ楽器を取り入れるチームが増えていったようです。 第2回の開催については当初、地元関係者の負担軽減と大型スポンサー獲得を目的に、1981年秋から業務の大部分を株式会社シマクリエイティブに委託することとしました。シマクリエイティブが必要な資金を獲得し実行するとの約束を交わし、準備が進められていました。 しかし一方で、第1回の雷門メインステージが事故発生寸前であったことや、パレード形式の運営自体が警視庁の意向に沿わない部分があったため、警視庁の了解を得ることは困難を極めました。結果として実施を見送らざるを得ない状況となり、第2回の開催は一時的に暗礁に乗り上げてしまったのです。 このような困難の中、地元・浅草警察署の署長以下担当者の皆さんが極めて好意的かつ精力的に対応してくださったことで最終的に警視庁の理解を得ることができ、第2回浅草サンバカーニバルは改めて開催のめどが立つまでに至りました。 ただし、この一連の経緯により正式な許可が大幅に遅延。許可が下りたのは1982年6月になってからでした。また許可は得られたもののその条件は大変厳しく、遅延等によりスポンサー獲得が不可能になったとして、シマクリエイティブから契約解除の申し入れがあり、結局シマクリエイティブを主体とした構想は断念せざるを得ませんでした。 このことにより第2回の開催はまたしても困難な状況に陥りましたが、実行委員会は、“今年中止すれば、浅草で再びサンバを実施することが不可能となるのは火を見るより明らか”であるとして、協議を重ねた末、新たな業者に依頼することを断念。多少無理をしてでも決行することを決め、急遽実施要領を変更して地元の素人による手作りで開催にこぎつけました。 ※以上昭和57年9月11日付第2回事業経過報告書による なお同報告書には、先人の様々な努力と工夫で現在の浅草があり、我々も子孫に対しより良い浅草を遺していく覚悟と、サンバカーニバルを浅草における立派な行事として浅草発展のために育成していくことが記されています。このような極めて厳しい状況を乗り越えた街の皆さんの覚悟には、改めて敬意を表さざるを得ません。 ●第2回開催概要 主催 :浅草カーニバル実行委員会 日時 :1982年8月7日(土)16:00~20:00 パレードコース : 浅草寺境内(現・アレゴリア製作場所)→馬道通り→国際通り→雷門通り→馬道通り→浅草寺境内 (現・アレゴリア製作場所)でおおむね2kmのコース 出場チーム(コミュニケーションチーム含む) :53チーム 現在につながる出演チーム : サッシペレレ10名、大学サンバ連盟100名、仲見世チーム90名、 浅草新仲見世チーム30名、コンボトウシュー9名、スピック&スパン6名 優勝チーム :仲見世バルバロス 審査員 : 審査委員長 :楠本憲吉(俳人) 審査員 :伊藤彰彦(読売新聞社事業開発部長)、貴洞哲夫(東京都生活文化局長)、竹村淳(FM NHK DJ)、須田良三(日本ブラジル中央協会常務理事)、原洋子(ヴァリグブラジル航空広報部長)、西坂範之(日本競技ダンス連盟)、ソニア・ローザ(歌手)、河野昌二(東芝EMI)、平形忠司(トエミミュージックオフィス代表)、塚田茂(放送作家) 賞金 : 大賞 100万円及び副賞、トロフィー(以下同) 金賞 30万円 銀賞 20万円 台東区長賞 10万円 特別賞 各賞金5万円 演奏賞、仮装賞、アイデア賞、ユーモア賞、ダンス賞 審査基準 : 大賞・金賞・銀賞・台東区長賞については各審査員がリズム感・ダンスの構成・衣装・チームワーク・熱中度の各項目ごとにそれぞれ100点満点で採点し11審査員の合計点が多い順に成績を決定する。 特別賞は一人の審査員が項目ごとに1チームを選び最も多くの審査員に選ばれたチームを入賞とする。 歓迎レセプション :8月26日(金)PM6:00 会場 :浅草公会堂(有料・立食パーティー) ゲスト :ブラジルチーム(インペリオセラーノ5名)、オパ 参加基準 : 1チーム5名以上。サンバカーニバルにふさわしい衣装あるいは仮装をすること。原則としてサンバリズムで踊ること。できるだけ楽器持参のこと。 応募締め切り :8月18日 開会式の記述なし 表彰式 :浅草寺観音堂裏特設ステー ジ 当時の実施要項(表紙)。 パレード編成順及び名称。10名以下~100名までの53団体が参加していたことがわかります。
- 【浅草サンバカーニバル創世記3】1981年8月29日 第1回浅草サンバカーニバル開催!
成功裡に終わったプレカーニバルを経て、翌年浅草では、いよいよサンバカーニバルが開催されることとなりました。リオ・デ・ジャネイロから同年の優勝チームが招聘され、また各種関連イベントも開催されるという盛り上がりぶりが、当時の実施計画案から感じることができます。区と地元の、イベントにかける並々ならぬ意気込みと地元愛を引き続き追っていきましょう。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第3回は、「【浅草サンバカーニバル創世記3】1981年8月29日 第1回浅草サンバカーニバル開催!」です。 文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による ●実施計画案から知る、地元の思い 1981年8月29日、いよいよ満を持して第1回浅草カーニバルが開催されました。この時の盛り上がりは、’81年5月に提示された浅草カーニバルの実施計画案(以下「実施計画案」)から見て取れます。 実は当時の実施計画案には、“サンバ”の2文字と開催回数の表記がなく、公式記録にこれらが表示されたのは、第2回からでした。 実施計画案には、“若い人の街 浅草を目指して”をコンセプトに、新しい伝統行事を作り上げるという強い思いが記載されています。第1回カーニバルは、同年のリオ優勝チーム(ポルテーラ)の選抜メンバー30名を、実行委員会が経費負担して招聘するなど大変大掛かりなイベントとして実施されました。 リオで見た盛り上がりを浅草で実現するという意欲の下、浅草に関連する多くの団体をまとめ、スポンサーを確保して継続を図ってゆくことも明記されています。また日本ではサンバになじみがない状況を踏まえ、カーニバル開催に先立って7月・8月に計10回のサンバ講習会が開催されるとの記録も残っており、これらのことからも、イベント成功にかけた地元の並々ならぬ意気込みが感じられます。 なおこの時出場したほとんどのチームは、サンバの音源を流しステージに上がって踊るというスタイルで、自前で演奏したのは、優勝したMOAチームのみでした。 ●第1回の概要 地元での盛り上がりは、第1回の概要からも感じることができます。 一つひとつ見ていくと、現在とは参加基準が異なったり前夜祭が行われたりと実施状況との違いも多く、なかなか興味深い内容になっています。 ※第1回概要から抜粋 主催: 浅草カーニバル実行委員会 推進協議会名誉会長: 台東区長(当時)内山榮一 実行委員長: 飯村茂 歓迎レセプション: 8月27日PM6:00 台東区民会館8階にて 会費10,000円で378名が参加。立食パーティー形式で、福原章クインテットをバックにショウが行われた 前夜祭: 8月28日PM4:30 国際劇場にて 会費3,000円で1,128名が参加。松崎しげる、SKD(松竹歌劇団)、リオのカーニバルが出演 サンバカーニバル: 8月29日 PM5:00~PM9:00雷門通り特設ステージ ゲスト出演は、しばたはつみ、ネイティブサン サンバコンクールも開催 サンバ講習会の開催: 7月3日から8月14日の間の10日間。浅草公会堂及び城ダンススクールなどでサンバ講習会が開催された コンクール形態: 雷門通り特設ステージにおける1チーム1分~3分の定点パフォーマンス コンテスト司会: 吉幾三、清水クーコ 参加団体: 66チーム(参加者1,000名)) 参加基準: 1チーム5名以上。応募締め切り8月15日 現在につながる主な出場チーム: 仲見世エンコ・サンバスクール60名(現・仲見世バルバロス)、上智大学チームソフィア8名、新仲チーム50名、台東区役所チーム17名、など 審査員: 審査委員長 :伴淳三郎 審査員 :田村景一(元ブラジル大使)、竹村淳(Mディレクター)、白都真理(女優)、湯浅武(読売新聞社)、田中忠(日本競技ダンス連盟)、春日宏美(SKD)、千羽ちどり(SKD)、藤川洋子(SKD)、中村猛夫(東京都生活文化局長)、原洋子(ヴァリグブラジル航空) 賞金: 優勝 100万円及び副賞(以下同) 2位チーム30万円、3位チーム20万円 他に10万円の賞金付きの表彰も行われた 優勝: MOAサンバチーム ●出演チームの横顔 優勝したMOAサンバチームは多くのブラジル人サンビスタを擁する200名のチームでした。出場チーム中唯一、自らの演奏で出場した団体で、当時の録画を見ても本格的なサンバ演奏を行っていたことがわかります。コンテストを中継したテレビ東京の映像によると、優勝発表直後のインタビューでMOAサンバチームは、賞金を全て福祉団体に寄付するとコメントしています。 第1回に出場した仲見世エンコ・サンバスクールは現在の仲見世バルバロスの前身です。 仲見世バルバロスHPによると、 「“エンコ”というのは、当時の浅草公園六区のことを指す隠語」 だとか。インターネット普及前であった1980年代は、資料も知識も乏しく、 「サンバってまあこんな感じだろっ!と仲見世商店街のドレス屋さんから金色の布を譲り受け、各自衣装らしく仕立てたり、ただ身体に巻きつけただけの人もいたり。」(仲見世バルバロスHP) という状況だったようです。隔世の感がありますが、 「現在、そして未来へと繋がるはじめの一歩であった。」(同上) とも記されています。 なお第1回に出場した学生チームはソフィアサンバグループ(上智大学)(8名)のみで、個人でいくつかの一般参加チームで出場したメンバーを除き、藝大としての出場はありませんでした。多くの藝大メンバーは、リオから参加する前年優勝のポルテーラの演奏を楽しみにし、生で身近に見る最高のチャンスと考えていました。また音楽科のメンバーは、バテリアの打ち出すリズムを写譜するという目的などもあり、出場を見送ったとのことでした。 *永武氏談 学生チームについては、第2回は「大学サンバ連盟」、第3回には「ユニオン・ジ・アマドーレス」という名称で参加しています。 「大学サンバ連盟」という名称については、一般の観客に意味が分かるような表現にしてほしいとの要望が実行委員会からあり、ユニオン・ジ・アマドーレスというチーム名が使えなかったとのことでした。 *永武氏談 次回掲載は“第2回浅草サンバカーニバル”です。第2回の開催にあたっては多くの困難があったようです。お楽しみに! 第1回に出場した仲見世エンコ・サンバスクール(現・仲見世バルバロス)。 ゴールドで統一した衣装でゴージャスに演出。 当時のチラシ。キャッチコピーが、80年代の勢いを感じさせます。
- 【浅草サンバカーニバル創世記2】1980年8月 プレカーニバルの開催へ
2019年時点で浅草サンバカーニバルの観覧者は50万人。16のエスコーラ、3,000人超の参加者を数え、2024年には第39回目を迎えます。 たいていのイベントは小規模でスタートするのが常ですが、浅草サンバカーニバルに限っては、第1回から13万人の観覧者、65チーム、3,000人に迫る参加者を誇るビッグイベントでした。 東京藝大サンバパーティーと、浅草の活性化をめざした商連・観光連盟との出会い。サンバという新しいカルチャーを浅草に根付かせたその道筋を、さらに辿っていきましょう。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第2回は、「【浅草サンバカーニバル創世記2】1980年8月 プレカーニバル開催」です。 文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による 浅草サンバカーニバル企画の加速化を目論み、’80年8月3日には浅草において、サンバフェスティバル・イン浅草(プレカーニバル)が行われました。 プレカーニバルは当初、恒例の盆踊りと一緒に行われる予定でした。しかし降雨により盆踊りが中止となっても、藝大サンバパーティーをはじめとしたサンバ関係者や地元チーム などは雨が降り続くなか出場。雑誌『中南米音楽』によると “屋外特設ステージでサンバコンテストは行われ、サンバ狂たち5~60人はステージから仲見世通りを突き抜けて屋外に繰り出すという騒ぎになった。子供が踊りだし張られた綱をくぐって酔っ払いが踊りだす。リオの下町とちっとも変わらない騒ぎよう”だったそうです。 用意された優勝賞品はなんと、ポリドールのLPレコード(タイトル不明)! 六本木の“美しい”お兄さんたちも参加したとのこと(『中南米音楽』1981年10月号)。 プレカーニバル実施にあたっては、’79年からの経緯があったことを受けて、浅草側から藝大サンバパーティーへの声掛けがありました。サンバパーティーは当時のメンバーに加え、バンドや知人、一般のサンバ活動グループ(八王子サンバグループなど)にも声を掛けプレカーニバルに臨みました。浅草側はまた、SKD(松竹歌劇団)ダンシングチームやダンススクールの生徒、浅草の祭りで神輿を担いでいたグループなどにも話を持ち掛けました。それらのグループは生演奏ではなくサンバ音源で参加したそうです。なお当日の降雨の影響で、衣装の羽根が傷むことを懸念したSKDチームのダンサーは、結局参加できなかったとのことでした。 *永武氏談 さてこのプレカーニバルに合わせてもう一つ誕生したのが、仲見世バルバロスの前身「仲見世エンコ・サンバスクール」です。それは二人の神輿担ぎから始まりました。出場チームの募集が始まるなか、地元・仲見世商店街からもチームを出そうじゃないか、とお声が掛かったのが、三社祭などで仲見世の神輿を担いでいた「祭好会」の高橋重雄さんと諸橋稔さんでした。このお二人を中心に作られた仲見世エンコ・サンバスクールは、引き続き第1回サンバカーニバルにも出場。これが後に強豪チームの一つである、仲見世バルバロスとなります。残念なことにお二人はすでに他界されています。合掌! ちなみにこの“エンコ”というのは、池袋をブクロ、上野をノガミなどと呼んだように、当時の浅草公園六区のことを指す隠語でした。 プレカーニバルの模様を掲載 『中南米音楽』
- ブラジルフェスティバルにAESA加盟チームが出演します
7/20(土)、7/21(日)に代々木公園でブラジルフェスティバルが開催されます。AESA加盟チームからは、自由の森学園、ウニアン、リベルダージ、アレグリア、バルバロスが出演します! 詳細はこちら https://www.facebook.com/share/7hDXyWMCnAowysV9/ ?
- 【浅草サンバカーニバル創世記1】カーニバル誕生前夜
南米・ブラジルの文化の一角を担う「サンバ」が、ブラジルから世界に、そして地球の裏側の日本に届けられ、まもなく50年になろうとしています。ブラジル本国を除けば日本は、世界最大のコミュニティとカーニバルを誇る「サンバ大国」です。その黎明期、如何にしてコミュニティが生まれ、育っていったのか。日本で同時多発的に芽吹いたサンバの萌芽が、浅草の街と人、浅草サンバカーニバルを土壌として、独自の成長を遂げた歴史を追ってみましょう。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第1回は、「【浅草サンバカーニバル創世記1】カーニバル誕生前夜」です。 文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記 録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による ●1970年代 浅草活性化に向けた台東区や商連・観連の取り組み 1970年代に入り、街の活況に陰りと危機感を感じた浅草の皆さんは、台東区や内山榮一台東区長とともに、活性化に向けて対応策を模索していました。 それまでの浅草は、東京ばかりでなく日本をも代表する若者の街でした。しかし観光の街として有名であっても、この頃には平日の賑わいもなく若者の声が聴ける街ではなくなっていました。浅草商連・観光連盟など地元団体の皆さんは、先人の残してくれた幾多の伝統行事に甘んじることなく、我々自身で魅力あるビッグイベントを作り上げよう、そのビッグイベントを伝統行事として後世に伝えようという視点で、新たな活性化策を検討していたのです。 *出典/第1回浅草サンバカーニバル実施計画案より(以下「第1回計画案」という。) この浅草活性化の動きがなぜサンバにつながったのか、そのきっかけが何だったのか。これについては、俳優・伴淳三郎さんのアドバイスがあったというものや、一方でそれを否定し神戸まつりを参考にして始まった(Wikipedia)など諸説あるものの、いずれの説についてもこれまで明確な根拠がありませんでした。 ●藝大サンバパーティーの出現 さて、1978年ころ、東京藝術大学音楽学部打楽器科に在籍していた中村功氏が台東区にある藝大学内でサンバ活動を始めました。当時音楽学部と美術学部は別々の敷地にあって、音楽学部は校庭での演奏が禁止されていたため、中村氏は美術学部の校庭でサンバを演奏することになりました。これを、すでに学外でサンバ活動を行っていた日本画家の永武哲弥氏(当時藝大美術学部日本画科在籍)が聞きつけ、中村氏に声をかけて一緒に演奏し始めたことが「藝大サンバパーティー(藝大サンバ部の前身)」となり、藝大内でサンバ活動が広がるきっかけとなりました。 *出典/永武氏談及び藝祭歴史展サンバの歴史 ●藝大サンバパーティーと内山区長との出会い 藝大サンバパーティーは当初、藝大祭(藝祭)開催時に、サンバで学内を練り歩いていました。‘79年、そのパレードでの演奏に、例年藝大祭を訪れていた当時の台東区長・内山榮一氏が遭遇。サンバパーティーのメンバーに声を掛けました。 浅草の賑わいの衰退を懸念し、活性化策を探していた内山氏と、街に繰り出してサンバを行おうとしていた永武氏を含むサンバパーティーのメンバーは、サンバで街を活性化しようという話題で大いに盛り上がったそうです。 *永武氏談 ●伴淳さんと内山区長 この出会いの後、台東区長が、当時の浅草を代表するスターであった伴淳三郎氏に、サンバによるまちづくりについて相談をし(永武氏談)、これが浅草サンバカーニバル開催の契機になりました。 第1回浅草サンバカーニバルの記録映像(テレビ東京『独占おとなの時間』)にも、コンテストのステージ映像と、伴淳三郎さん、内山区長のインタビューが残されています。ここで伴淳さんは、“区長から相談されたが、私はすでにブラジルに6回行ってリオのカーニバルも見てきていた。浅草に絶対に合うイベントなので、ぜひ一度見に行ってらっしゃいと区長に言った。浅草の灯を消さないよう、目玉になるよう(なイベント)にしてほしい、浅草は常に浮かれていなければならない”と話しています。さらに区長も同番組内で、“皆からやれ! やれ! と言われていて実施したが、街の皆さんがよくやってくれた。伴淳先生のおかげでできた。こうなったら来年もやる”と語っており、これらの経緯を聞く限り、永武氏の話ともほぼ合致していることが確認できました。 ●リオ・サンバカーニバルの見学 伴淳三郎さんの助言を受けて1980年2月、内山区長をはじめとする台東区スタッフと浅草商連・観光連盟有志による面々が、リオのカーニバルの見学を実行に移しました。 *第1回計画案より 浅草の街の歴史に精通する浅草東洋興業会長・松倉久幸さんは、月刊浅草ウエッブの浅草サンバカーニバル誕生のいきさつについての取材に答え、 === 浅草に往年の輝きを取り戻すきっかけを模索していた内山区長に、伴淳さんがサンバでの街おこしを進言し、区長は彼の勧めを受けて職員数人とリオに行った。内山さんは芸能や新しい試みに対しとても理解がある人だったがそれにしても当時は海外視察などそう簡単でない時期で、抜群の行動力に頭が下がる。可哀そうなことに区長は意気揚々とリオに乗り込んだものの長旅の疲れと時差ボケがたたり、体調不良で肝心なカーニバルは見ることができなかったが、本場の臨場感に触れた同行スタッフの声を聴くにつけ、情熱的なサンバは、お祭りと聞けば血が騒ぐ浅草っ子たちの気質に合うに違いないとの思いを強くし、帰国早々「浅草サンバカーニバル」の実現に向けて精力的に動き出しました。 といっても周囲にはサンバを踊れる人など皆無で、考えあぐねた結果日系ブラジル人及びブラジル人が多く居住する大泉町に支援を要望したところ、彼らはこの唐突な申し出を快諾しわざわざ浅草まで出向いてくれ親切丁寧な指導をしてくれました。商店連合会にも協力を仰ぎ、またアサヒビールの中条高徳氏の大々的なバックアップを得るなど多くの人々の温かい協力に支えられ開催にこぎつけ、現在のビッグイベントに成長したのです。珍道中に戸惑いながらも遥々ブラジルまで視察旅行に行かれた区長と職員の方々の苦労が実を結び本当に良かったと思います。 === と述べられています。 *出典/月刊浅草ウエッブ2021.4.8号 またこのリオ行に同行し、のちに実行委員会を立ち上げることになる浅草商連の皆さんも、熱狂的で生きる喜びを爆発させた本場のカーニバルに触れ、「浅草における三社祭のエネルギーと何ら変わらない共通性を感じ取って」(*第1回計画案より抜粋)、サンバカーニバル企画が本格的に始動することになりました。 (連載第1回終了)
- 【浅草サンバカーニバル創世記0】
日本にサンバカーニバルが生まれた日 浅草サンバカーニバル、その起源と歴史 浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 浅草サンバカーニバルは1980年のプレカーニバルそして1981年の第1回開催以降、浅草の夏を締めくくる行事として毎年50万人とも言われる観客を集め、3,000人が参加・出場するビッグイベントに成長しました。現在は北半球一のサンバカーニバルとして、世界的な知名度を得ています。 本稿は浅草サンバカーニバルの起源、また創成期からの経緯・歴史を、現存する資料と関係者の皆さまの証言をもとにまとめたものです。 取りまとめる中で、1970年代~1980年代にかけスタートした浅草サンバカーニバルが、浅草の街の皆さんと、日本のサンバ黎明期を担ったサンバ関係者の熱意が重なり合って現在まで続き、北半球一のサンバカーニバルとして結実していることを痛感しました。 関係した皆さん一人ひとりの大きな熱意と、小さな偶然が育てた日本のサンバという実りを、本稿から感じていただけると幸いです。 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による
- 【AESAの歴史5】世界第二位規模のカーニバル成功のために
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 ブラジル以外の国で開催されるサンバカーニバルの中で、今やもっとも参加人数の多いイベントに成長した「Asakusa Samba Carnival」。その中核として機能しているのが、私たちAESAです。新たなチームの参加もあり、現在11チームが加盟(2023年4月現在)。約2,000人のサンビスタの意見を取りまとめ、浅草サンバカーニバル実行委員会と一丸となって、よりよいカーニバルづくりをめざしています。 また2006年からは国内外のサンビスタを繋ぐさまざまなプロジェクトもスタート。日本で唯一のサンバ協会として、浅草のみならず世界中に、サンバを通し笑顔と希望、喜びを伝えるお手伝いをしています。 《 前の記事 |
- 【AESAの歴史4】AESAの発足
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 時代は'90年代に突入。日本にもサッカーリーグができ、ジョアン&アストラッド・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンなどのボサノヴァが日本でもたびたびメディアで取り上げられるようになると、それまで一部の人にしか知られていなかったブラジル発祥のこの祭りも、徐々に全国に名が知れ渡るところとなっていきます。 メンバー達の熱心な情報収集と、円高などによって渡伯しやすくなったことも後押しして、各エスコーラ(サンバチーム)の参加人数は年を追うごとに増え、1部リーグのエスコーラからアレゴリア(山車)も出すようになります。イベントはより大規模に、華やかに、本家ブラジルのカーニバルに近づこうと盛大になっていきました。 2000年時点での浅草サンバカーニバル出場エスコーラは36チーム。約3,000人が雷門前をパレー ドしたことになります。パレードコースや開催時期、時間帯などを少しずつマイナーチェンジしながら、イベントは創設からすでに20年が過ぎようとしていました。 そして参加者が増えれば増えるほど、注目度がアップすればするほど、参加者・観客ともに全員が楽しむための適切なルールづくりが求められるようになってきていました。それを実現させるための「機関」の設立が、急務として考えられ始めたのです。 こうした時代の要請を受け2000年、1部リーグに所属する5つの大規模エスコーラを束ねる機関として、「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」が満を持して発足しました。 10回を数える頃になると、衣装も徐々に豪華に 《 前の記事 | 次の記事 》
- 【AESAの歴史3】サンビスタネットワークの中心として
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 浅草に産声を上げた新しいサンバのお祭り。前述した通り、参加するほとんどの人が、今までサンバというもの自体を見たり聞いたりしたことすらありませんでした。しかし人間の本能を揺さぶるリズム、華やかな装飾や衣装、笑顔いっぱいの開放的な雰囲気が、このお祭りにふれるすべての人の心を捉えて離さなくなるまでに、多く時間はかかりませんでした。 実は日本はそれより70年も前から国策としてブラジルへの移民を開始しており、日本にもブラジル人が住み、ブラジル音楽を愛好する人たちも少なからずいました。とはいえインターネットが発達している現代と違い、ブラジル・日本間のみならず、日本国内ですら愛好家同士のネットワークは今よりずっと希薄なものでした。 新しいカーニバルの噂はメディア等を通じて全国の愛好家に伝わりました。最初は仮装コンテスト 的様相の強いイベントに半信半疑だった愛好家達も、2年めからは徐々に浅草に集まるようになりました。仲見世で和太鼓を叩いていたメンバーは、サンバという音楽の魅力にはまりブラジルの楽器を手にするようになりました。個別に出ていた大学生チームは一緒にやろうと声をかけ、「連合」として手を取り合いました。2回、3回と回を重ねるごとに、楽器を揃え、衣装を工夫し、羽を集めて、「仮装行列」ではない「サンバ」を追求しようというチームが増えていきました。 本当のところ、最初は全員がサンバ好きで集まってきたわけではありませんでした。しかしこうしてさまざまなきっかけで集まった人々が、「サンバ」という共通言語を得て、浅草を中心にネットワークを形成し始めたのです。 G.R.E.S.仲見世バルバロスが優勝した、第9回の表彰式 《 前の記事 | 次の記事 》
- 【AESAの歴史2】カーニバルが始まった!
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 三社祭などで知られるように、元々お祭りが大好きな土地柄。加えてフランス座(現・浅草演芸ホール)やSKD(松竹歌劇団)など、浅草はまた、日本の新しいエンターテインメントが生まれる場所としても知られていました。新しいアイデアはこの地に受け入れられ、いよいよ1981年「第1回浅草サンバカーニバル」としてスタートを切ることになったのです。 現在はパレード形式のみですが、当時はそれに加えて雷門前に巨大なステージが組み上げられ、仮装パフォーマンスを競い合いました。第1回めから参加チームは66を数え、雷門正面の通りは30万人もの見物客で埋め尽くされました。 バンド演奏のサンバのリズムに合わせ、数分の持ち時間で出演者が登場。5人程度の小さなグループから200人を超える大集団まで、おてもやんからパイレーツ、クラブキッズまで、さまざまな仮装でめまぐるしく入れ替わります。 地球の裏側の文化「サンバ」に思いを馳せ、力一杯踊りを披露。その姿は純粋にお祭りを楽しむ精神に溢れ、現在の野外フェスやレイヴ・パーティーかと見まごうほどパワーみなぎるものでした。 ちなみにこの時の優勝は約200人のメンバーで臨んだ「M・O・Aサンバチーム」。ブラジル人のバテリア(楽器隊)を含む本格的なチームでした。 前年まで櫓の上で太鼓を叩いていた現・仲見世バルバロスのメンバーほか、現在もパレードに参加するエスコーラのメンバーの幾人かも、この時すでにイベントに参加していたそうです。リオから前年度のカーニバル優勝チーム「velha guarda da portela」(ポルテーラ)30名が来日し、圧倒的なステージで、生まれたてのサンバカーニバルに花を添えてくれました。 G.R.E.S.仲見世バルバロスが優勝した、第9回の表彰式 《 前の記事 | 次の記事 》
- 【AESAの歴史1】浅草でサンバカーニバル?
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 1980年。高度成長時代を終え、時代がバブルに向かって疾走し始めた頃、東京を代表する歴史の街「浅草」にも、ひとつの変化が起こりました。 「浅草で、サンバカーニバルを開催しよう!」 そう提案したのは人気喜劇俳優、伴淳三郎さん。面白い! とそのアイデアに乗ったのが、時の台東区長、内山榮一さんでありました。 実は前年まで浅草では、大規模な盆踊りが開催されていました。その時期になると人が大勢やってきて、大きな櫓の下に集って踊る。踊り手の参加者数は日本一、踊りの輪が幾重にもなるほど、とても人気の高いお祭りだったそうです。 しかしいくら人気があり人が集まるお祭りであっても、盆踊りは全国各地の他の市町村でも開催されています。また踊り手でないと楽しめないという欠点もありました。 「見物の人がたくさん集まり、みんなが楽しめて、独創性のあるお祭りはできないものか」 江戸の歴史を背負いながら、浅草という街自体も新しい時代に向かって変革を迫られていました。その答えが、日本文化にこだわらない、歴史をうち破る新しいイベントとして提示されたのです。 まだ日本ではほとんどの人が、サンバというものを生で見たことがない時代でした。 開催当初のダンサーのコスチューム。情報も材料もない中で、工夫を凝らして作っていました。 | 次の記事 》