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  • 【浅草サンバカーニバル創世記3】1981年8月29日 第1回浅草サンバカーニバル開催!

    成功裡に終わったプレカーニバルを経て、翌年浅草では、いよいよサンバカーニバルが開催されることとなりました。リオ・デ・ジャネイロから同年の優勝チームが招聘され、また各種関連イベントも開催されるという盛り上がりぶりが、当時の実施計画案から感じることができます。区と地元の、イベントにかける並々ならぬ意気込みと地元愛を引き続き追っていきましょう。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第3回は、「【浅草サンバカーニバル創世記3】1981年8月29日 第1回浅草サンバカーニバル開催!」です。 文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による ●実施計画案から知る、地元の思い 1981年8月29日、いよいよ満を持して第1回浅草カーニバルが開催されました。この時の盛り上がりは、’81年5月に提示された浅草カーニバルの実施計画案(以下「実施計画案」)から見て取れます。 実は当時の実施計画案には、“サンバ”の2文字と開催回数の表記がなく、公式記録にこれらが表示されたのは、第2回からでした。 実施計画案には、“若い人の街 浅草を目指して”をコンセプトに、新しい伝統行事を作り上げるという強い思いが記載されています。第1回カーニバルは、同年のリオ優勝チーム(ポルテーラ)の選抜メンバー30名を、実行委員会が経費負担して招聘するなど大変大掛かりなイベントとして実施されました。 リオで見た盛り上がりを浅草で実現するという意欲の下、浅草に関連する多くの団体をまとめ、スポンサーを確保して継続を図ってゆくことも明記されています。また日本ではサンバになじみがない状況を踏まえ、カーニバル開催に先立って7月・8月に計10回のサンバ講習会が開催されるとの記録も残っており、これらのことからも、イベント成功にかけた地元の並々ならぬ意気込みが感じられます。 なおこの時出場したほとんどのチームは、サンバの音源を流しステージに上がって踊るというスタイルで、自前で演奏したのは、優勝したMOAチームのみでした。 ●第1回の概要 地元での盛り上がりは、第1回の概要からも感じることができます。 一つひとつ見ていくと、現在とは参加基準が異なったり前夜祭が行われたりと実施状況との違いも多く、なかなか興味深い内容になっています。 ※第1回概要から抜粋 主催: 浅草カーニバル実行委員会 推進協議会名誉会長: 台東区長(当時)内山榮一 実行委員長: 飯村茂 歓迎レセプション: 8月27日PM6:00 台東区民会館8階にて 会費10,000円で378名が参加。立食パーティー形式で、福原章クインテットをバックにショウが行われた 前夜祭: 8月28日PM4:30 国際劇場にて 会費3,000円で1,128名が参加。松崎しげる、SKD(松竹歌劇団)、リオのカーニバルが出演 サンバカーニバル: 8月29日 PM5:00~PM9:00雷門通り特設ステージ ゲスト出演は、しばたはつみ、ネイティブサン サンバコンクールも開催 サンバ講習会の開催: 7月3日から8月14日の間の10日間。浅草公会堂及び城ダンススクールなどでサンバ講習会が開催された コンクール形態: 雷門通り特設ステージにおける1チーム1分~3分の定点パフォーマンス コンテスト司会: 吉幾三、清水クーコ 参加団体: 66チーム(参加者1,000名)) 参加基準: 1チーム5名以上。応募締め切り8月15日 現在につながる主な出場チーム: 仲見世エンコ・サンバスクール60名(現・仲見世バルバロス)、上智大学チームソフィア8名、新仲チーム50名、台東区役所チーム17名、など 審査員: 審査委員長 :伴淳三郎 審査員 :田村景一(元ブラジル大使)、竹村淳(Mディレクター)、白都真理(女優)、湯浅武(読売新聞社)、田中忠(日本競技ダンス連盟)、春日宏美(SKD)、千羽ちどり(SKD)、藤川洋子(SKD)、中村猛夫(東京都生活文化局長)、原洋子(ヴァリグブラジル航空) 賞金: 優勝 100万円及び副賞(以下同) 2位チーム30万円、3位チーム20万円 他に10万円の賞金付きの表彰も行われた 優勝: MOAサンバチーム ●出演チームの横顔 優勝したMOAサンバチームは多くのブラジル人サンビスタを擁する200名のチームでした。出場チーム中唯一、自らの演奏で出場した団体で、当時の録画を見ても本格的なサンバ演奏を行っていたことがわかります。コンテストを中継したテレビ東京の映像によると、優勝発表直後のインタビューでMOAサンバチームは、賞金を全て福祉団体に寄付するとコメントしています。 第1回に出場した仲見世エンコ・サンバスクールは現在の仲見世バルバロスの前身です。 仲見世バルバロスHPによると、 「“エンコ”というのは、当時の浅草公園六区のことを指す隠語」 だとか。インターネット普及前であった1980年代は、資料も知識も乏しく、 「サンバってまあこんな感じだろっ!と仲見世商店街のドレス屋さんから金色の布を譲り受け、各自衣装らしく仕立てたり、ただ身体に巻きつけただけの人もいたり。」(仲見世バルバロスHP) という状況だったようです。隔世の感がありますが、 「現在、そして未来へと繋がるはじめの一歩であった。」(同上) とも記されています。 なお第1回に出場した学生チームはソフィアサンバグループ(上智大学)(8名)のみで、個人でいくつかの一般参加チームで出場したメンバーを除き、藝大としての出場はありませんでした。多くの藝大メンバーは、リオから参加する前年優勝のポルテーラの演奏を楽しみにし、生で身近に見る最高のチャンスと考えていました。また音楽科のメンバーは、バテリアの打ち出すリズムを写譜するという目的などもあり、出場を見送ったとのことでした。 *永武氏談 学生チームについては、第2回は「大学サンバ連盟」、第3回には「ユニオン・ジ・アマドーレス」という名称で参加しています。 「大学サンバ連盟」という名称については、一般の観客に意味が分かるような表現にしてほしいとの要望が実行委員会からあり、ユニオン・ジ・アマドーレスというチーム名が使えなかったとのことでした。 *永武氏談 次回掲載は“第2回浅草サンバカーニバル”です。第2回の開催にあたっては多くの困難があったようです。お楽しみに!

  • 【浅草サンバカーニバル創世記2】1980年8月 プレカーニバルの開催へ

    2019年時点で浅草サンバカーニバルの観覧者は50万人。16のエスコーラ、3,000人超の参加者を数え、2024年には第39回目を迎えます。 たいていのイベントは小規模でスタートするのが常ですが、浅草サンバカーニバルに限っては、第1回から13万人の観覧者、65チーム、3,000人に迫る参加者を誇るビッグイベントでした。 東京藝大サンバパーティーと、浅草の活性化をめざした商連・観光連盟との出会い。サンバという新しいカルチャーを浅草に根付かせたその道筋を、さらに辿っていきましょう。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第2回は、「【浅草サンバカーニバル創世記2】1980年8月 プレカーニバル開催」です。 文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による 浅草サンバカーニバル企画の加速化を目論み、’80年8月3日には浅草において、サンバフェスティバル・イン浅草(プレカーニバル)が行われました。 プレカーニバルは当初、恒例の盆踊りと一緒に行われる予定でした。しかし降雨により盆踊りが中止となっても、藝大サンバパーティーをはじめとしたサンバ関係者や地元チーム などは雨が降り続くなか出場。雑誌『中南米音楽』によると “屋外特設ステージでサンバコンテストは行われ、サンバ狂たち5~60人はステージから仲見世通りを突き抜けて屋外に繰り出すという騒ぎになった。子供が踊りだし張られた綱をくぐって酔っ払いが踊りだす。リオの下町とちっとも変わらない騒ぎよう”だったそうです。 用意された優勝賞品はなんと、ポリドールのLPレコード(タイトル不明)! 六本木の“美しい”お兄さんたちも参加したとのこと(『中南米音楽』1981年10月号)。 プレカーニバル実施にあたっては、’79年からの経緯があったことを受けて、浅草側から藝大サンバパーティーへの声掛けがありました。サンバパーティーは当時のメンバーに加え、バンドや知人、一般のサンバ活動グループ(八王子サンバグループなど)にも声を掛けプレカーニバルに臨みました。浅草側はまた、SKD(松竹歌劇団)ダンシングチームやダンススクールの生徒、浅草の祭りで神輿を担いでいたグループなどにも話を持ち掛けました。それらのグループは生演奏ではなくサンバ音源で参加したそうです。なお当日の降雨の影響で、衣装の羽根が傷むことを懸念したSKDチームのダンサーは、結局参加できなかったとのことでした。 *永武氏談 さてこのプレカーニバルに合わせてもう一つ誕生したのが、仲見世バルバロスの前身「仲見世エンコ・サンバスクール」です。それは二人の神輿担ぎから始まりました。出場チームの募集が始まるなか、地元・仲見世商店街からもチームを出そうじゃないか、とお声が掛かったのが、三社祭などで仲見世の神輿を担いでいた「祭好会」の高橋重雄さんと諸橋稔さんでした。このお二人を中心に作られた仲見世エンコ・サンバスクールは、引き続き第1回サンバカーニバルにも出場。これが後に強豪チームの一つである、仲見世バルバロスとなります。残念なことにお二人はすでに他界されています。合掌!   ちなみにこの“エンコ”というのは、池袋をブクロ、上野をノガミなどと呼んだように、当時の浅草公園六区のことを指す隠語でした。 プレカーニバルの模様を掲載 『中南米音楽』

  • ブラジルフェスティバルにAESA加盟チームが出演します

    7/20(土)、7/21(日)に代々木公園でブラジルフェスティバルが開催されます。AESA加盟チームからは、自由の森学園、ウニアン、リベルダージ、アレグリア、バルバロスが出演します! 詳細はこちら https://www.facebook.com/share/7hDXyWMCnAowysV9/ ?

  • 【浅草サンバカーニバル創世記1】カーニバル誕生前夜

    南米・ブラジルの文化の一角を担う「サンバ」が、ブラジルから世界に、そして地球の裏側の日本に届けられ、まもなく50年になろうとしています。ブラジル本国を除けば日本は、世界最大のコミュニティとカーニバルを誇る「サンバ大国」です。その黎明期、如何にしてコミュニティが生まれ、育っていったのか。日本で同時多発的に芽吹いたサンバの萌芽が、浅草の街と人、浅草サンバカーニバルを土壌として、独自の成長を遂げた歴史を追ってみましょう。 日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。 第1回は、「【浅草サンバカーニバル創世記1】カーニバル誕生前夜」です。 文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記 録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による ●1970年代 浅草活性化に向けた台東区や商連・観連の取り組み 1970年代に入り、街の活況に陰りと危機感を感じた浅草の皆さんは、台東区や内山榮一台東区長とともに、活性化に向けて対応策を模索していました。 それまでの浅草は、東京ばかりでなく日本をも代表する若者の街でした。しかし観光の街として有名であっても、この頃には平日の賑わいもなく若者の声が聴ける街ではなくなっていました。浅草商連・観光連盟など地元団体の皆さんは、先人の残してくれた幾多の伝統行事に甘んじることなく、我々自身で魅力あるビッグイベントを作り上げよう、そのビッグイベントを伝統行事として後世に伝えようという視点で、新たな活性化策を検討していたのです。 *出典/第1回浅草サンバカーニバル実施計画案より(以下「第1回計画案」という。) この浅草活性化の動きがなぜサンバにつながったのか、そのきっかけが何だったのか。これについては、俳優・伴淳三郎さんのアドバイスがあったというものや、一方でそれを否定し神戸まつりを参考にして始まった(Wikipedia)など諸説あるものの、いずれの説についてもこれまで明確な根拠がありませんでした。 ●藝大サンバパーティーの出現 さて、1978年ころ、東京藝術大学音楽学部打楽器科に在籍していた中村功氏が台東区にある藝大学内でサンバ活動を始めました。当時音楽学部と美術学部は別々の敷地にあって、音楽学部は校庭での演奏が禁止されていたため、中村氏は美術学部の校庭でサンバを演奏することになりました。これを、すでに学外でサンバ活動を行っていた日本画家の永武哲弥氏(当時藝大美術学部日本画科在籍)が聞きつけ、中村氏に声をかけて一緒に演奏し始めたことが「藝大サンバパーティー(藝大サンバ部の前身)」となり、藝大内でサンバ活動が広がるきっかけとなりました。 *出典/永武氏談及び藝祭歴史展サンバの歴史 ●藝大サンバパーティーと内山区長との出会い 藝大サンバパーティーは当初、藝大祭(藝祭)開催時に、サンバで学内を練り歩いていました。‘79年、そのパレードでの演奏に、例年藝大祭を訪れていた当時の台東区長・内山榮一氏が遭遇。サンバパーティーのメンバーに声を掛けました。 浅草の賑わいの衰退を懸念し、活性化策を探していた内山氏と、街に繰り出してサンバを行おうとしていた永武氏を含むサンバパーティーのメンバーは、サンバで街を活性化しようという話題で大いに盛り上がったそうです。 *永武氏談 ●伴淳さんと内山区長 この出会いの後、台東区長が、当時の浅草を代表するスターであった伴淳三郎氏に、サンバによるまちづくりについて相談をし(永武氏談)、これが浅草サンバカーニバル開催の契機になりました。 第1回浅草サンバカーニバルの記録映像(テレビ東京『独占おとなの時間』)にも、コンテストのステージ映像と、伴淳三郎さん、内山区長のインタビューが残されています。ここで伴淳さんは、“区長から相談されたが、私はすでにブラジルに6回行ってリオのカーニバルも見てきていた。浅草に絶対に合うイベントなので、ぜひ一度見に行ってらっしゃいと区長に言った。浅草の灯を消さないよう、目玉になるよう(なイベント)にしてほしい、浅草は常に浮かれていなければならない”と話しています。さらに区長も同番組内で、“皆からやれ! やれ! と言われていて実施したが、街の皆さんがよくやってくれた。伴淳先生のおかげでできた。こうなったら来年もやる”と語っており、これらの経緯を聞く限り、永武氏の話ともほぼ合致していることが確認できました。 ●リオ・サンバカーニバルの見学 伴淳三郎さんの助言を受けて1980年2月、内山区長をはじめとする台東区スタッフと浅草商連・観光連盟有志による面々が、リオのカーニバルの見学を実行に移しました。 *第1回計画案より 浅草の街の歴史に精通する浅草東洋興業会長・松倉久幸さんは、月刊浅草ウエッブの浅草サンバカーニバル誕生のいきさつについての取材に答え、 === 浅草に往年の輝きを取り戻すきっかけを模索していた内山区長に、伴淳さんがサンバでの街おこしを進言し、区長は彼の勧めを受けて職員数人とリオに行った。内山さんは芸能や新しい試みに対しとても理解がある人だったがそれにしても当時は海外視察などそう簡単でない時期で、抜群の行動力に頭が下がる。可哀そうなことに区長は意気揚々とリオに乗り込んだものの長旅の疲れと時差ボケがたたり、体調不良で肝心なカーニバルは見ることができなかったが、本場の臨場感に触れた同行スタッフの声を聴くにつけ、情熱的なサンバは、お祭りと聞けば血が騒ぐ浅草っ子たちの気質に合うに違いないとの思いを強くし、帰国早々「浅草サンバカーニバル」の実現に向けて精力的に動き出しました。 といっても周囲にはサンバを踊れる人など皆無で、考えあぐねた結果日系ブラジル人及びブラジル人が多く居住する大泉町に支援を要望したところ、彼らはこの唐突な申し出を快諾しわざわざ浅草まで出向いてくれ親切丁寧な指導をしてくれました。商店連合会にも協力を仰ぎ、またアサヒビールの中条高徳氏の大々的なバックアップを得るなど多くの人々の温かい協力に支えられ開催にこぎつけ、現在のビッグイベントに成長したのです。珍道中に戸惑いながらも遥々ブラジルまで視察旅行に行かれた区長と職員の方々の苦労が実を結び本当に良かったと思います。 === と述べられています。 *出典/月刊浅草ウエッブ2021.4.8号 またこのリオ行に同行し、のちに実行委員会を立ち上げることになる浅草商連の皆さんも、熱狂的で生きる喜びを爆発させた本場のカーニバルに触れ、「浅草における三社祭のエネルギーと何ら変わらない共通性を感じ取って」(*第1回計画案より抜粋)、サンバカーニバル企画が本格的に始動することになりました。 (連載第1回終了)

  • 【浅草サンバカーニバル創世記0】

    日本にサンバカーニバルが生まれた日 浅草サンバカーニバル、その起源と歴史 浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎 浅草サンバカーニバルは1980年のプレカーニバルそして1981年の第1回開催以降、浅草の夏を締めくくる行事として毎年50万人とも言われる観客を集め、3,000人が参加・出場するビッグイベントに成長しました。現在は北半球一のサンバカーニバルとして、世界的な知名度を得ています。 本稿は浅草サンバカーニバルの起源、また創成期からの経緯・歴史を、現存する資料と関係者の皆さまの証言をもとにまとめたものです。 取りまとめる中で、1970年代~1980年代にかけスタートした浅草サンバカーニバルが、浅草の街の皆さんと、日本のサンバ黎明期を担ったサンバ関係者の熱意が重なり合って現在まで続き、北半球一のサンバカーニバルとして結実していることを痛感しました。 関係した皆さん一人ひとりの大きな熱意と、小さな偶然が育てた日本のサンバという実りを、本稿から感じていただけると幸いです。 *各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による *チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による

  • 【AESAの歴史5】世界第二位規模のカーニバル成功のために

    2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 ブラジル以外の国で開催されるサンバカーニバルの中で、今やもっとも参加人数の多いイベントに成長した「Asakusa Samba Carnival」。その中核として機能しているのが、私たちAESAです。新たなチームの参加もあり、現在11チームが加盟(2023年4月現在)。約2,000人のサンビスタの意見を取りまとめ、浅草サンバカーニバル実行委員会と一丸となって、よりよいカーニバルづくりをめざしています。 また2006年からは国内外のサンビスタを繋ぐさまざまなプロジェクトもスタート。日本で唯一のサンバ協会として、浅草のみならず世界中に、サンバを通し笑顔と希望、喜びを伝えるお手伝いをしています。 《前の記事|

  • 【AESAの歴史4】AESAの発足

    2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 時代は'90年代に突入。日本にもサッカーリーグができ、ジョアン&アストラッド・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンなどのボサノヴァが日本でもたびたびメディアで取り上げられるようになると、それまで一部の人にしか知られていなかったブラジル発祥のこの祭りも、徐々に全国に名が知れ渡るところとなっていきます。 メンバー達の熱心な情報収集と、円高などによって渡伯しやすくなったことも後押しして、各エスコーラ(サンバチーム)の参加人数は年を追うごとに増え、1部リーグのエスコーラからアレゴリア(山車)も出すようになります。イベントはより大規模に、華やかに、本家ブラジルのカーニバルに近づこうと盛大になっていきました。 2000年時点での浅草サンバカーニバル出場エスコーラは36チーム。約3,000人が雷門前をパレー ドしたことになります。パレードコースや開催時期、時間帯などを少しずつマイナーチェンジしながら、イベントは創設からすでに20年が過ぎようとしていました。 そして参加者が増えれば増えるほど、注目度がアップすればするほど、参加者・観客ともに全員が楽しむための適切なルールづくりが求められるようになってきていました。それを実現させるための「機関」の設立が、急務として考えられ始めたのです。 こうした時代の要請を受け2000年、1部リーグに所属する5つの大規模エスコーラを束ねる機関として、「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」が満を持して発足しました。 10回を数える頃になると、衣装も徐々に豪華に 《前の記事|次の記事》

  • 【AESAの歴史3】サンビスタネットワークの中心として

    2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 浅草に産声を上げた新しいサンバのお祭り。前述した通り、参加するほとんどの人が、今までサンバというもの自体を見たり聞いたりしたことすらありませんでした。しかし人間の本能を揺さぶるリズム、華やかな装飾や衣装、笑顔いっぱいの開放的な雰囲気が、このお祭りにふれるすべての人の心を捉えて離さなくなるまでに、多く時間はかかりませんでした。 実は日本はそれより70年も前から国策としてブラジルへの移民を開始しており、日本にもブラジル人が住み、ブラジル音楽を愛好する人たちも少なからずいました。とはいえインターネットが発達している現代と違い、ブラジル・日本間のみならず、日本国内ですら愛好家同士のネットワークは今よりずっと希薄なものでした。 新しいカーニバルの噂はメディア等を通じて全国の愛好家に伝わりました。最初は仮装コンテスト 的様相の強いイベントに半信半疑だった愛好家達も、2年めからは徐々に浅草に集まるようになりました。仲見世で和太鼓を叩いていたメンバーは、サンバという音楽の魅力にはまりブラジルの楽器を手にするようになりました。個別に出ていた大学生チームは一緒にやろうと声をかけ、「連合」として手を取り合いました。2回、3回と回を重ねるごとに、楽器を揃え、衣装を工夫し、羽を集めて、「仮装行列」ではない「サンバ」を追求しようというチームが増えていきました。 本当のところ、最初は全員がサンバ好きで集まってきたわけではありませんでした。しかしこうしてさまざまなきっかけで集まった人々が、「サンバ」という共通言語を得て、浅草を中心にネットワークを形成し始めたのです。 G.R.E.S.仲見世バルバロスが優勝した、第9回の表彰式 《前の記事|次の記事》

  • 【AESAの歴史2】カーニバルが始まった!

    2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 三社祭などで知られるように、元々お祭りが大好きな土地柄。加えてフランス座(現・浅草演芸ホール)やSKD(松竹歌劇団)など、浅草はまた、日本の新しいエンターテインメントが生まれる場所としても知られていました。新しいアイデアはこの地に受け入れられ、いよいよ1981年「第1回浅草サンバカーニバル」としてスタートを切ることになったのです。 現在はパレード形式のみですが、当時はそれに加えて雷門前に巨大なステージが組み上げられ、仮装パフォーマンスを競い合いました。第1回めから参加チームは66を数え、雷門正面の通りは30万人もの見物客で埋め尽くされました。 バンド演奏のサンバのリズムに合わせ、数分の持ち時間で出演者が登場。5人程度の小さなグループから200人を超える大集団まで、おてもやんからパイレーツ、クラブキッズまで、さまざまな仮装でめまぐるしく入れ替わります。 地球の裏側の文化「サンバ」に思いを馳せ、力一杯踊りを披露。その姿は純粋にお祭りを楽しむ精神に溢れ、現在の野外フェスやレイヴ・パーティーかと見まごうほどパワーみなぎるものでした。 ちなみにこの時の優勝は約200人のメンバーで臨んだ「M・O・Aサンバチーム」。ブラジル人のバテリア(楽器隊)を含む本格的なチームでした。 前年まで櫓の上で太鼓を叩いていた現・仲見世バルバロスのメンバーほか、現在もパレードに参加するエスコーラのメンバーの幾人かも、この時すでにイベントに参加していたそうです。リオから前年度のカーニバル優勝チーム「velha guarda da portela」(ポルテーラ)30名が来日し、圧倒的なステージで、生まれたてのサンバカーニバルに花を添えてくれました。 G.R.E.S.仲見世バルバロスが優勝した、第9回の表彰式 《前の記事|次の記事》

  • 【AESAの歴史1】浅草でサンバカーニバル?

    2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 1980年。高度成長時代を終え、時代がバブルに向かって疾走し始めた頃、東京を代表する歴史の街「浅草」にも、ひとつの変化が起こりました。 「浅草で、サンバカーニバルを開催しよう!」 そう提案したのは人気喜劇俳優、伴淳三郎さん。面白い! とそのアイデアに乗ったのが、時の台東区長、内山榮一さんでありました。 実は前年まで浅草では、大規模な盆踊りが開催されていました。その時期になると人が大勢やってきて、大きな櫓の下に集って踊る。踊り手の参加者数は日本一、踊りの輪が幾重にもなるほど、とても人気の高いお祭りだったそうです。 しかしいくら人気があり人が集まるお祭りであっても、盆踊りは全国各地の他の市町村でも開催されています。また踊り手でないと楽しめないという欠点もありました。 「見物の人がたくさん集まり、みんなが楽しめて、独創性のあるお祭りはできないものか」 江戸の歴史を背負いながら、浅草という街自体も新しい時代に向かって変革を迫られていました。その答えが、日本文化にこだわらない、歴史をうち破る新しいイベントとして提示されたのです。 まだ日本ではほとんどの人が、サンバというものを生で見たことがない時代でした。 開催当初のダンサーのコスチューム。情報も材料もない中で、工夫を凝らして作っていました。 |次の記事》

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