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【AESAの歴史1】浅草でサンバカーニバル?

更新日:5月30日

2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。

人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。

取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀


 

1980年。高度成長時代を終え、時代がバブルに向かって疾走し始めた頃、東京を代表する歴史の街「浅草」にも、ひとつの変化が起こりました。

「浅草で、サンバカーニバルを開催しよう!」

そう提案したのは人気喜劇俳優、伴淳三郎さん。面白い! とそのアイデアに乗ったのが、時の台東区長、内山榮一さんでありました。

実は前年まで浅草では、大規模な盆踊りが開催されていました。その時期になると人が大勢やってきて、大きな櫓の下に集って踊る。踊り手の参加者数は日本一、踊りの輪が幾重にもなるほど、とても人気の高いお祭りだったそうです。


しかしいくら人気があり人が集まるお祭りであっても、盆踊りは全国各地の他の市町村でも開催されています。また踊り手でないと楽しめないという欠点もありました。

「見物の人がたくさん集まり、みんなが楽しめて、独創性のあるお祭りはできないものか」

江戸の歴史を背負いながら、浅草という街自体も新しい時代に向かって変革を迫られていました。その答えが、日本文化にこだわらない、歴史をうち破る新しいイベントとして提示されたのです。

まだ日本ではほとんどの人が、サンバというものを生で見たことがない時代でした。


開催当初のダンサーのコスチューム。情報も材料もない中で、工夫を凝らして作っていました。



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