【浅草サンバカーニバル創世記5】1983年~1985年、あの日僕らは浅草にいた
- Ryota Yamakami
- 6月19日
- 読了時間: 15分
第3回浅草サンバカーニバルが開催されたのは1983年ですが、私たちサンビスタの中には、当時すでに出場していた人もいます。今回は参加者の視点から、浅草サンバカーニバル黎明期を振り返ります。第1回、第2回の浅草サンバカーニバルを沿道から観覧し、第3回で初参加したリベルダージの木皿儀孝行さん、第5回でサンバクイーン(個人賞)に選出された植原美香里さんに手記を寄稿していただきました。長文ですが、貴重な資料として、第3回~第5回のデータとともに全文を掲載しました。ぜひご覧ください。
日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。
第5回は、「【浅草サンバカーニバル創世記5】1983年~1985年、あの日僕らは浅草にいた」です。
文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎
*各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記録による
*チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による
第3回 浅草サンバカーニバル(1983年 )
●初めての浅草サンバカーニバル
寄稿/リベルダージ 木皿儀孝行さん
第1回サンバカーニバルは、たしか新聞情報で開催を知り、夜になって見物に行ったのですが、イベントは終了していました。夜遅くやると勝手に思っていたんです。
第2回の時は経堂のサンデーサンバスクールに所属していましたが、参加の話はなく、仲間と見物に行きました。現在より観客数は多かったような気がします。場所を移動しても顔から上しか見えず、短時間で帰りました。
第3回に初めて参加しました。ドミンゴというチームでしたが、単独で参加したのか、それとも八王子のチームと合同で参加したか、記憶があいまいです。少人数のチームが多数出場し、楽しんだうえ、かなりのチームに5万円の賞金が授与されました。その年の秋に渋谷でイベントがあり、サングラス & リーゼント姿の強面の3人に声をかけられ、ライブに誘われました。それがバルバロスの当時のリーダーの高橋さんと、諸橋さん、和田さんだった。その日初めて、バルバロスの事を知りました。
リベルダージ設立後は、高橋さんには大変お世話になりました。
現在の浅草サンバカーニバルはレベルが高くなりましたが、出場チームの減少も問題になってきています。少人数で参加できる特別枠を抽選で募集する、等のアイデアもありますが、どうでしょうか。
●第三回 浅草まつり 浅草サンバかあにぃばる 開催概要 ※表記は実行委員会資料に準拠
主催:浅草カーニバル実行委員会 実行委員長:飯村 茂 日時:1983年8月27日(土)18:00~21:30 歓迎レセプション:8月26日(金) 会場:台東区民会館(精養軒) 有料 パレードコース: 前回と同じ。浅草寺境内(現アレゴリア製作場所)→ 馬道通り→国際通り→雷門通り→馬道通り→浅草寺境内 (現アレゴリア製作場所)でおおむね2kmのコース。 パレードは参加チームを9グループに分けグループごとにフロート車を挟み音響・照明機能を持たせ著名タレントを乗せた。 出場(出演)著名人: 倉田まり子、川島なお美、明石家さんま、高田純次、山田邦子他 オパ、SKD(春日宏美他) リオ招請チーム:ポルテーラ サンバリズム・ステップ講習会: 6月19日から7月29日の間の7日間・会場は雷門前大和銀行跡1回においてオパの指導で実施。 賞金: 大賞 100万円及び副賞、トロフィー(以下同) 金賞 30万円 銀賞 20万円 各種特別賞あり 参加団体(コミュニケーションチーム含まない):33チーム 現在につながる出演チーム: 仲見世バルバロス60名、台東区役所チーム70名、 ユニオン・ジ・アマドーレス80名、M・O・A・サンバチーム150名 参加基準: 一チーム5名以上。サンバカーニバルにふさわしい衣装あるいは仮装をすること。原則としてサンバリズムで踊ること。楽器持参も可。 応募締め切り:8月15日
表彰式:特設ステージ(場所の記録なし) 優勝チーム:M・O・A・サンバチーム 金賞:ユニオン・ジ・アマドーレス 審査員: 審査委員長:はかま満緒(作家) 副委員長:丹下キヨ子 審査員:鈴木邦彦(作曲家)、原洋子(ヴァリグブラジル航空広報部長)、伊藤彰彦(読売新聞社事業開発部長)、津田健(読売新聞社新宿支局長)、須田良三(日伯中央協会常務理事)、嶋本忠義(上島珈琲取締役東京支社長)、高橋平(大日本印刷(株)CDC事業部取締役事業部長)、嵐康一郎(日伯美術連盟事務局長) ※この回の実施計画案では“審査に関しては著名文化人及び専門家を加えて審査のより一層の公正を期すとともに各参加チーム審査結果に対する説得力強化を図る“とされていた。 |
第4回 浅草サンバカーニバル(1984年 )
●第四回 浅草まつり 浅草サンバかあにぃばる 開催概要 ※表記は実行委員会資料に準拠 主催:浅草サンバかあにぃばる実行委員会 実行委員長:飯村 茂 日時:1984年8月4日(土)16:30~20:30 パレードコース: 二天門→馬道通り→雷門通り→すし屋横丁角まで ※この回(第4回)からコースが変更され、現在とほぼ同じコースになった。 参加団体(コミュニケーションチーム含まない):40チーム 現在につながる出演チーム: 仲見世バルバロス80名、台東区役所チーム70名、 シンナカ・イルマンスドサンバ(40名)ユニオンチーム(80名)、イパネマ25名 優勝チーム: JAL・FLYING・ANGELS 審査員:資料なし |
第5回 浅草サンバカーニバル(1985年 )
●1985年(昭和60年)第5回浅草サンバカーニバル
寄稿/植原美香里さん (第5回浅草サンバカーニバル最優秀個人賞受賞者)
通常は8月の最終土曜日に開催されるのだが、3月に東北・上越新幹線上野駅開業、4月に桜橋完成、12月に近代仲見世誕生100周年もあって、この第5回はそれに合わせた「東京下町ライブ‘85計画」のイベントの一つとして、「東京ダウンタウンカーニバル 浅草サンバスペシャル」と銘打ち、珍しく10月5日に行われた。
当時のサンバカーニバルの規定では1チーム5名以上で参加でき、しかもサンバに直接関係なくてもOKだったので、初期の参加者は地元企業の有志や友人同士、かっぽれ道場の皆さん、新宿二丁目のショーパブの皆さん等々と彩り豊かであった。音楽は専ら街中に張り巡らされた音響装置から、耳馴染みのあるブラジルの曲「アクアレラ・ド・ブラジル」、「トリステーザ」、「ママ・エウ・ケーロ」などが流されていた。つまり、流れる音楽に合わせて思い思いの衣装でパフォーマンスをする、いわば仮装パレードといった具合。
私は、この年の4月にクルゼイロ・ド・スウルというエスコーラに入った。フランシス・シルヴァ氏率いるこのときのクルゼイロは総勢50名前後の編成で、チーム独自のパレード曲(サンバ・ヂ・エンヘード)を作った。おそらくオリジナルの曲を作って浅草に参加したのは、クルゼイロが初めてだったのではないだろうか。それに合わせて打楽器のパターン(バツカーダ)、踊り(ソロとグループ(パシスタとアーラ))と旗振り(ポルタ・バンデイラ)役を決めた。ご存じの方は旗振りの介添え役(メストレ・サーラ)は? とお思いだろうが、この時は男性ダンサーがいないので、ひとりぼっちの旗振りだった。1986年までは、他のエスコーラ・ヂ・サンバと名乗るチームも同じような状態だった。ユニオン・ドス・アマドーリス(当時はユニオンと呼んでいた 現在のウニアン)は男女の演者を揃えてはいたが、男性は楽器担当、女性は踊り担当が普通だったのである。
衣装といっても入手する手段も構造もわからないので、バテリア(打楽器隊)は白いトップハットをチームカラーの赤と緑のシールで飾り、揃いのオリジナルTシャツを作り、ダンサーは大手のレンタル衣装会社から借りて髪飾り等、一部手作りを加えつつ用意した。アーラのダンサーに同じものを用意するにはもってこいである。皆、ビキニでの肌の露出は嫌なので、ワンピースの水着型でそれとなく腰回りを覆うオーガンジー製のケープを首からひらひらさせていた。端を手にくくりつけると蝶が羽を広げたようにボリュームが出るので、人数の少なさがカバーできるという利点もあった。
私はというと、パシスタ2人のうちの1人に選ばれたので、スパンコールのビキニを借りて、生地店や服飾材料店で材料を入手、数少ない南米特集の雑誌や旅行のパンフレットのそれらしい写真などを参考に手作りで準備した。
浅草サンバカーニバルはコンテスト形式で順位がつくのはおなじみだが、第5回の優勝チームには、賞状とトロフィー、賞金100万円とブラジル行のペア航空券、二位にも同様に賞金があった(金額は多分30万円)。その他に「最優秀個人賞」というのがあって、これは第6回まで続いたが、チームの中で代表者を決め、チームのパフォーマンスとは別に審査されるという。この賞には5万円の賞金がつくというので、選ばれた私は、打ち上げの飲み代をゲットする! と宣言して本番当日に臨んだ。
当日の参加チームの演者控室は、台東小学校の体育館があてがわれた。オリジナル曲を引っ提げたクルゼイロは、ガラス屋のトラックに機材を設置してPA車を準備した。ガラス屋のトラックというのが良い目の付け所で、荷台に「馬」と呼ばれる三角の台(ガラスを立てかける)があるので、機材を隠しながら飾りつけるには最適であった。沿道に流れる曲とバッティングするのは百も承知、とにかくブラジル仕様でいくのが我がクルゼイロの気概であった。
通常の真夏の開催とは違って、10月5日は涼風気持ち良い日であった。パレードの開始時間は15時。当時の集合場所は、浅草寺の東側、浅草神社の前の広場。衣装を付けた出場者20チーム約800人(中南米新聞/1985/10/16発表)が一同に集まり、ドコスコ思い思いに音を出すのを遠巻きに、観客が集まり、半裸の女の子を撮影しようとカメラ愛好家があちこちに出没する。中には良からぬ嗜好で撮影しようとする輩もいて、小競り合いもあり、喧騒そのものであった。
開会宣言の後、順に二天門をくぐり抜け、パレードが始まる。陽が傾いた沿道には多くの観客がいるのだが、皆、珍しいものを観るような目つきというのが第一印象だった。まるで動物園の檻の中にいるようだ。腕組みして無表情な男性も多い。夏のイベントのパレードでその目つきに慣れていたとはいえ、規模が違う。さっきまで円陣を組んでいたメンバーもパレードでは一列になるため、心細くはなるが、そこは出たからにはやらねばならん。
こういう時は比較的、女性は素直に反応して笑顔を見せてくれる。よし、やるぞとその人の前でステップを踏みパフォーマンスすると、破顔して拍手をしてくれ、周囲になごみの笑顔が連鎖して拍手の輪が広がった。やっぱりこれだー。手応えを掴んだ。手拍子で煽るのも効いた。つまり、楽しむ方法がわからないのだから、観客を参加させてしまえばいいのだ。
だが、問題はまだある。隊列の進行である。打楽器を奏でながら歩行するのは大変なこと。グループダンサーもしかり。振付があるからだ。ところがパレード進行の目安として、プラカードを持ったボーイスカウトがいるのだが、彼らも普段、頻繁にやっている訳ではない。当然、前が進めばついて行く。後ろがどうなっているのかはお構いなしである。どんどん間隔が広がりだしたのに気づいた私は、自由に動ける利点を活かして、ステップを踏みつつパフォーマンスしながら、さもパレードの構成の演出として、前後のリーダー格のメンバーに近づいては進行の指示を伝え回る。アーラのダンサーたちも、振付の中にある「自由に踊っていいフレーズ」を利用し、出来るだけ大きく動いてもらって隊列が一つの塊と沿道から見えるように進行した。それでも時々大きくあいてしまうのは仕方ない。当時の50人規模のエスコーラのパシスタは、パフォーマーであり、ディレクターであり、進行係も兼任したのだった。
浅草松屋の交差点を雷門に向かって曲がるころには、日も沈んだ。各チームに照明車が何台か付いた。だから、初パフォーマンスは夜だったという印象が強い。そのうち、興が乗ってきたバテリアのメンバー達が、2人のソロダンサーの引き立てに、隊列をくずして取り囲むスタイルをやり始めた。人数の少なさを逆手に取ったこの演出は格好よかった。
審査員席前でも同様に、スルドやカイシャのメンバーをバックにグループダンサーが並び、また、そのソロダンサーを取り囲むバテリアの構成でチームのパフォーマンスが審査され、さらに私は最優秀個人賞エントリーの「紅バラ」を目印につけて審査を受けた。やがてゴール線を越えると、皆でやり終えたという達成感を味わいながら、そのままコンテスト表彰式の行われる浅草公会堂へ向かった。初めて出場した緊張感から解放され、軽い疲れと涼風が気持ちよかった。通りではまだ、他の人数の多いチーム=仲見世バルバロス、ポルテーラ・ジャパン、ユニオン(現ウニアン・ドス・アマドーリス)のパフォーマンスが続いていた。
浅草公会堂では参加者全員が座って表彰式を見るようになっていて、ギラギラのラメパウダーやペイント、汗などで汚されないようにと敷かれた座席のビニールが、肌にぺたぺたくっついたのを今も覚えている。場内はパレードが終わった興奮で騒然としていた。
最後のチームの着席を待って、会場の照明が落とされると表彰式が始まった。開会宣言の後、ノーチェ・クバーナの演奏、SKDの踊り、来賓の挨拶を経て、いよいよ各賞の発表である。早く名前を呼ばれてしまうとそれ以上の賞を取れないので、名前が告げられるたびに、チーム全員で大きく安堵のため息をついたのには笑ってしまった。
「最優秀個人賞 受賞者は……〇×△★%□●!!」
歓声と共に、チームの皆が私の顔を見て、口々に「やったね! おめでとう!」と拍手をくれる。私は「ん?私? 呼ばれた? ような気がするけど……」の頭のまま固まっていると、ステージでは「どちらにいらっしゃいますか? どうぞ、こちらにいらしてください」と呼んでいる。皆に促されて、私は2階から1階の階段を駆け下りる。取っちゃったよ、取っちゃったよ……と呟きながら。1階後方の重い扉を開けると、大歓声に包まれ、ステージに向かって通路を歩き、ステージに上がる。そして2階にいるチームメンバーに手を振り、そのままレヴェランス(バレエのお辞儀)をすると、一段と大きな歓声が沸き起こった。ようやく、受賞の実感が湧いてきた。
「最優秀個人賞、おめでとう」
祝福を受けながら、審査委員長よりトロフィーと賞状、副賞目録を受け取ったのだが、またそこに驚くべきことが待ち受けていた。聞いていた5万円の賞金以外に、なんとブラジル行のペア航空券が付いていたのだ。
「えっ、聞いていないよーー(心の中で)」
再び、大歓声と拍手に包まれながらも、私は狐につままれたような気持ちを持ったまま、ステージ上で最後の三賞(大賞、金賞、銀賞)発表のために、各チームの代表者を呼びこむアナウンスを聞いていた。やがて、にこにこ笑いながら、プレジデンチ(リーダー)のシルヴァ氏とアーラのリーダーのK子さんが上がってきた。そして、全チームが揃ったところで結果発表を待った。
おなじみのドラムロール、ドゥルルルルルル……ジャン!
「銀賞(3位) ノタ・デース大学サンバ連合!」
ふー、思わずため息が出た。ということは……。どっちだ? どきどき……。
再び、ドゥルルルルルル……ジャン!
「金賞(2位) クルゼイロ・ド・スウル!」
「やったぁ! やったねぇ!」
3人で抱き合って喜び、2階にいるメンバーに大きく手を振り、メンバーからも歓声と打楽器で称え合った。
そして、優勝は仲見世バルバロス。第一回から出場のベテラン、人数も財力も、地元の応援総動員で圧倒的な勝利であった。表彰式を終え、歓喜に沸き立つバルバロスを横目で見つつ、我がクルゼイロは金賞受賞を喜び合いながらも、来年は優勝を目指そうと皆の目が輝いていた。(そして、翌年第6回で本当に優勝したのだった)
第5回出場チーム(約800人)
1. ジャパン・デタガリ・オールスターズ
2. ボネッカス
3. (不明)
4. 女優軍団「でこまひこま」
5. サンバパンデーロ(ダンス賞)
6. タイムレディス(アイデア賞)
7. 松ぼっくり
8. 台東区役所 コンパニエロ・デ・サンバ(熱演賞)
9. サンバ・ニンバ・ゴンバ(審査員特別賞)
10. ハクビ京都きもの学院銀座校(ほのぼの賞)
11. リリー製靴(株)サンバクラブ(仮装賞)
12. 四谷玉ちゃん
13. 浅草松屋(努力賞)
14. セツ・ファッションクラブ(ユーモア賞)
15. E・Sクルゼイロ・ド・スウル(金賞/最優秀個人賞)
16. 仲見世バルバロス(下町ライブ大賞)
17. スタジオ・イレブン(フレッシュ賞)
18. ボルテラJAPAN(演奏賞)
19. エスコーラ・ジ・サンバ・イパネマ(浅草賞)
20. ノタ・デース大学サンバ連合/ユニオン・ドス・アマドーリス(銀賞)
●第五回 下町ライブ85 東京ダウンタウンカーニバル浅草サンバスペシャル 開催概要
※表記は実行委員会資料に準拠
第五回は主催体制が変更され、また開催も10月に移動している。植原美香里さんの手記にある通り、「東京下町ライブ‘85計画」のイベントの一つとして10月5日に行われた。
主催: 東京・下町ライブ計画実行委員会 会長:内山榮一 浅草サンバスペシャル委員会 委員長:飯村 茂 ※前述の事情から主催は“東京・下町ライブ計画実行委員会”となっている。 日時:1985年10月5日(土)16:00~18:15 パレードコース: 第4回と同じ 二天門→馬道通り→雷門通り→すし屋横丁角まで 参加団体(コミュニケーションチーム含まない):17チーム 現在につながる出演チーム: 仲見世バルバロス、エスコーラジサンバクルゼイロドスウル、 ノタデス大学サンバ連合(ユニオン) 優勝チーム:仲見世バルバロス 審査員: 審査委員長:池波志乃 審査員:マリア・ルシア・デ・アウメイダ・ハモス(ブラジル大使館文化担当官)、高橋良夫(東京都生活文化局観光レクリエーション課長)、伊藤彰彦(読売新聞社事業開発部長)、松田一成(日本ブラジル中央協会参与)、宇野一成(サンパウロ新聞東京支社長)、原洋子(ヴァリグブラジル航空 広報部)、三上次男(写真家)、川上弥栄子(金龍小学校教諭) 表彰式:浅草公会堂 19:00~20:00 特記事項: ①開会式・打ち上げについての記録なし ②第5回は出演者にお願い文が配布されている。その内容は (1)人間としての基本的な日常のあいさつ、会話等を常識的態度で望むこと (4)主催者、演技進行担当者、警察、その他各担当者の指導、指示に遅延なく従うこと。 などで、その他マナー順守についてのいくつかの項目が列挙されている。 |
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