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- 【AESAの歴史4】AESAの発足
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 時代は'90年代に突入。日本にもサッカーリーグができ、ジョアン&アストラッド・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンなどのボサノヴァが日本でもたびたびメディアで取り上げられるようになると、それまで一部の人にしか知られていなかったブラジル発祥のこの祭りも、徐々に全国に名が知れ渡るところとなっていきます。 メンバー達の熱心な情報収集と、円高などによって渡伯しやすくなったことも後押しして、各エスコーラ(サンバチーム)の参加人数は年を追うごとに増え、1部リーグのエスコーラからアレゴリア(山車)も出すようになります。イベントはより大規模に、華やかに、本家ブラジルのカーニバルに近づこうと盛大になっていきました。 2000年時点での浅草サンバカーニバル出場エスコーラは36チーム。約3,000人が雷門前をパレー ドしたことになります。パレードコースや開催時期、時間帯などを少しずつマイナーチェンジしながら、イベントは創設からすでに20年が過ぎようとしていました。 そして参加者が増えれば増えるほど、注目度がアップすればするほど、参加者・観客ともに全員が楽しむための適切なルールづくりが求められるようになってきていました。それを実現させるための「機関」の設立が、急務として考えられ始めたのです。 こうした時代の要請を受け2000年、1部リーグに所属する5つの大規模エスコーラを束ねる機関として、「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」が満を持して発足しました。 10回を数える頃になると、衣装も徐々に豪華に 《 前の記事 | 次の記事 》
- 【AESAの歴史3】サンビスタネットワークの中心として
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 浅草に産声を上げた新しいサンバのお祭り。前述した通り、参加するほとんどの人が、今までサンバというもの自体を見たり聞いたりしたことすらありませんでした。しかし人間の本能を揺さぶるリズム、華やかな装飾や衣装、笑顔いっぱいの開放的な雰囲気が、このお祭りにふれるすべての人の心を捉えて離さなくなるまでに、多く時間はかかりませんでした。 実は日本はそれより70年も前から国策としてブラジルへの移民を開始しており、日本にもブラジル人が住み、ブラジル音楽を愛好する人たちも少なからずいました。とはいえインターネットが発達している現代と違い、ブラジル・日本間のみならず、日本国内ですら愛好家同士のネットワークは今よりずっと希薄なものでした。 新しいカーニバルの噂はメディア等を通じて全国の愛好家に伝わりました。最初は仮装コンテスト 的様相の強いイベントに半信半疑だった愛好家達も、2年めからは徐々に浅草に集まるようになりました。仲見世で和太鼓を叩いていたメンバーは、サンバという音楽の魅力にはまりブラジルの楽器を手にするようになりました。個別に出ていた大学生チームは一緒にやろうと声をかけ、「連合」として手を取り合いました。2回、3回と回を重ねるごとに、楽器を揃え、衣装を工夫し、羽を集めて、「仮装行列」ではない「サンバ」を追求しようというチームが増えていきました。 本当のところ、最初は全員がサンバ好きで集まってきたわけではありませんでした。しかしこうしてさまざまなきっかけで集まった人々が、「サンバ」という共通言語を得て、浅草を中心にネットワークを形成し始めたのです。 G.R.E.S.仲見世バルバロスが優勝した、第9回の表彰式 《 前の記事 | 次の記事 》
- 【AESAの歴史2】カーニバルが始まった!
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 三社祭などで知られるように、元々お祭りが大好きな土地柄。加えてフランス座(現・浅草演芸ホール)やSKD(松竹歌劇団)など、浅草はまた、日本の新しいエンターテインメントが生まれる場所としても知られていました。新しいアイデアはこの地に受け入れられ、いよいよ1981年「第1回浅草サンバカーニバル」としてスタートを切ることになったのです。 現在はパレード形式のみですが、当時はそれに加えて雷門前に巨大なステージが組み上げられ、仮装パフォーマンスを競い合いました。第1回めから参加チームは66を数え、雷門正面の通りは30万人もの見物客で埋め尽くされました。 バンド演奏のサンバのリズムに合わせ、数分の持ち時間で出演者が登場。5人程度の小さなグループから200人を超える大集団まで、おてもやんからパイレーツ、クラブキッズまで、さまざまな仮装でめまぐるしく入れ替わります。 地球の裏側の文化「サンバ」に思いを馳せ、力一杯踊りを披露。その姿は純粋にお祭りを楽しむ精神に溢れ、現在の野外フェスやレイヴ・パーティーかと見まごうほどパワーみなぎるものでした。 ちなみにこの時の優勝は約200人のメンバーで臨んだ「M・O・Aサンバチーム」。ブラジル人のバテリア(楽器隊)を含む本格的なチームでした。 前年まで櫓の上で太鼓を叩いていた現・仲見世バルバロスのメンバーほか、現在もパレードに参加するエスコーラのメンバーの幾人かも、この時すでにイベントに参加していたそうです。リオから前年度のカーニバル優勝チーム「velha guarda da portela」(ポルテーラ)30名が来日し、圧倒的なステージで、生まれたてのサンバカーニバルに花を添えてくれました。 G.R.E.S.仲見世バルバロスが優勝した、第9回の表彰式 《 前の記事 | 次の記事 》
- 【AESAの歴史1】浅草でサンバカーニバル?
2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。 人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。 取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀 1980年。高度成長時代を終え、時代がバブルに向かって疾走し始めた頃、東京を代表する歴史の街「浅草」にも、ひとつの変化が起こりました。 「浅草で、サンバカーニバルを開催しよう!」 そう提案したのは人気喜劇俳優、伴淳三郎さん。面白い! とそのアイデアに乗ったのが、時の台東区長、内山榮一さんでありました。 実は前年まで浅草では、大規模な盆踊りが開催されていました。その時期になると人が大勢やってきて、大きな櫓の下に集って踊る。踊り手の参加者数は日本一、踊りの輪が幾重にもなるほど、とても人気の高いお祭りだったそうです。 しかしいくら人気があり人が集まるお祭りであっても、盆踊りは全国各地の他の市町村でも開催されています。また踊り手でないと楽しめないという欠点もありました。 「見物の人がたくさん集まり、みんなが楽しめて、独創性のあるお祭りはできないものか」 江戸の歴史を背負いながら、浅草という街自体も新しい時代に向かって変革を迫られていました。その答えが、日本文化にこだわらない、歴史をうち破る新しいイベントとして提示されたのです。 まだ日本ではほとんどの人が、サンバというものを生で見たことがない時代でした。 開催当初のダンサーのコスチューム。情報も材料もない中で、工夫を凝らして作っていました。 | 次の記事 》