南米・ブラジルの文化の一角を担う「サンバ」が、ブラジルから世界に、そして地球の裏側の日本に届けられ、まもなく50年になろうとしています。ブラジル本国を除けば日本は、世界最大のコミュニティとカーニバルを誇る「サンバ大国」です。その黎明期、如何にしてコミュニティが生まれ、育っていったのか。日本で同時多発的に芽吹いたサンバの萌芽が、浅草の街と人、浅草サンバカーニバルを土壌として、独自の成長を遂げた歴史を追ってみましょう。
日本サンバ史の渦中にいた松下氏が、調査・インタビューを経てまとめた「浅草サンバカーニバルの起源と歴史」を連載でお届けいたします。
第1回は、「【浅草サンバカーニバル創世記1】カーニバル誕生前夜」です。
文:浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)相談役 松下洋一郎
*各年のカーニバル実施基本データは浅草サンバカーニバル実行委員会作成の公式記
録による
*チーム名称は原則各年の実行委員会公式記録表記による
●1970年代 浅草活性化に向けた台東区や商連・観連の取り組み
1970年代に入り、街の活況に陰りと危機感を感じた浅草の皆さんは、台東区や内山榮一台東区長とともに、活性化に向けて対応策を模索していました。
それまでの浅草は、東京ばかりでなく日本をも代表する若者の街でした。しかし観光の街として有名であっても、この頃には平日の賑わいもなく若者の声が聴ける街ではなくなっていました。浅草商連・観光連盟など地元団体の皆さんは、先人の残してくれた幾多の伝統行事に甘んじることなく、我々自身で魅力あるビッグイベントを作り上げよう、そのビッグイベントを伝統行事として後世に伝えようという視点で、新たな活性化策を検討していたのです。
*出典/第1回浅草サンバカーニバル実施計画案より(以下「第1回計画案」という。)
この浅草活性化の動きがなぜサンバにつながったのか、そのきっかけが何だったのか。これについては、俳優・伴淳三郎さんのアドバイスがあったというものや、一方でそれを否定し神戸まつりを参考にして始まった(Wikipedia)など諸説あるものの、いずれの説についてもこれまで明確な根拠がありませんでした。
●藝大サンバパーティーの出現
さて、1978年ころ、東京藝術大学音楽学部打楽器科に在籍していた中村功氏が台東区にある藝大学内でサンバ活動を始めました。当時音楽学部と美術学部は別々の敷地にあって、音楽学部は校庭での演奏が禁止されていたため、中村氏は美術学部の校庭でサンバを演奏することになりました。これを、すでに学外でサンバ活動を行っていた日本画家の永武哲弥氏(当時藝大美術学部日本画科在籍)が聞きつけ、中村氏に声をかけて一緒に演奏し始めたことが「藝大サンバパーティー(藝大サンバ部の前身)」となり、藝大内でサンバ活動が広がるきっかけとなりました。
*出典/永武氏談及び藝祭歴史展サンバの歴史
●藝大サンバパーティーと内山区長との出会い
藝大サンバパーティーは当初、藝大祭(藝祭)開催時に、サンバで学内を練り歩いていました。‘79年、そのパレードでの演奏に、例年藝大祭を訪れていた当時の台東区長・内山榮一氏が遭遇。サンバパーティーのメンバーに声を掛けました。
浅草の賑わいの衰退を懸念し、活性化策を探していた内山氏と、街に繰り出してサンバを行おうとしていた永武氏を含むサンバパーティーのメンバーは、サンバで街を活性化しようという話題で大いに盛り上がったそうです。
*永武氏談
●伴淳さんと内山区長
この出会いの後、台東区長が、当時の浅草を代表するスターであった伴淳三郎氏に、サンバによるまちづくりについて相談をし(永武氏談)、これが浅草サンバカーニバル開催の契機になりました。
第1回浅草サンバカーニバルの記録映像(テレビ東京『独占おとなの時間』)にも、コンテストのステージ映像と、伴淳三郎さん、内山区長のインタビューが残されています。ここで伴淳さんは、“区長から相談されたが、私はすでにブラジルに6回行ってリオのカーニバルも見てきていた。浅草に絶対に合うイベントなので、ぜひ一度見に行ってらっしゃいと区長に言った。浅草の灯を消さないよう、目玉になるよう(なイベント)にしてほしい、浅草は常に浮かれていなければならない”と話しています。さらに区長も同番組内で、“皆からやれ! やれ! と言われていて実施したが、街の皆さんがよくやってくれた。伴淳先生のおかげでできた。こうなったら来年もやる”と語っており、これらの経緯を聞く限り、永武氏の話ともほぼ合致していることが確認できました。
●リオ・サンバカーニバルの見学
伴淳三郎さんの助言を受けて1980年2月、内山区長をはじめとする台東区スタッフと浅草商連・観光連盟有志による面々が、リオのカーニバルの見学を実行に移しました。
*第1回計画案より
浅草の街の歴史に精通する浅草東洋興業会長・松倉久幸さんは、月刊浅草ウエッブの浅草サンバカーニバル誕生のいきさつについての取材に答え、
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浅草に往年の輝きを取り戻すきっかけを模索していた内山区長に、伴淳さんがサンバでの街おこしを進言し、区長は彼の勧めを受けて職員数人とリオに行った。内山さんは芸能や新しい試みに対しとても理解がある人だったがそれにしても当時は海外視察などそう簡単でない時期で、抜群の行動力に頭が下がる。可哀そうなことに区長は意気揚々とリオに乗り込んだものの長旅の疲れと時差ボケがたたり、体調不良で肝心なカーニバルは見ることができなかったが、本場の臨場感に触れた同行スタッフの声を聴くにつけ、情熱的なサンバは、お祭りと聞けば血が騒ぐ浅草っ子たちの気質に合うに違いないとの思いを強くし、帰国早々「浅草サンバカーニバル」の実現に向けて精力的に動き出しました。
といっても周囲にはサンバを踊れる人など皆無で、考えあぐねた結果日系ブラジル人及びブラジル人が多く居住する大泉町に支援を要望したところ、彼らはこの唐突な申し出を快諾しわざわざ浅草まで出向いてくれ親切丁寧な指導をしてくれました。商店連合会にも協力を仰ぎ、またアサヒビールの中条高徳氏の大々的なバックアップを得るなど多くの人々の温かい協力に支えられ開催にこぎつけ、現在のビッグイベントに成長したのです。珍道中に戸惑いながらも遥々ブラジルまで視察旅行に行かれた区長と職員の方々の苦労が実を結び本当に良かったと思います。
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と述べられています。
*出典/月刊浅草ウエッブ2021.4.8号
またこのリオ行に同行し、のちに実行委員会を立ち上げることになる浅草商連の皆さんも、熱狂的で生きる喜びを爆発させた本場のカーニバルに触れ、「浅草における三社祭のエネルギーと何ら変わらない共通性を感じ取って」(*第1回計画案より抜粋)、サンバカーニバル企画が本格的に始動することになりました。
(連載第1回終了)
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